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■だが、後に海上王または貿易王という修飾語を持って語られる張保皐の実像は、あまり良く知られていない。史書から描き出すことができる彼の一代記はおよそ次のようなものだ。 ■張保皐は790年ごろ新羅西南海の莞島で生まれた。韓国名を弓福(クンボク)と言った。810年頃に中国の山東半島に渡り、その地の軍閥勢力であった徐州武寧軍に入って、高句麗出身の北方軍閥・李正已と戦った。軍人として活躍した張保皐は徐州節度使配下の武寧軍小将の地位を得ている。張保皐というのは彼の漢名である。円仁の著書『入唐求法巡礼行記』では、張宝高(ちょう ほこう)と記されている。 ■828年頃、張保皐は新羅に帰国すると、東アジアの海上で人身売買が横行し、新羅人が中国で奴隷として盛んに売買されているのに義憤を感じて、興徳王に面会して実情を報告した。すると、興徳王は張保皐に兵1万を授けて清海鎮大使に任命し、奴隷貿易禁圧を命じた。そこで、彼は莞島に清海鎮を設置して根拠地とし、海賊を掃討し安全で平和な航路を開いた。 ■張保皐は、海賊達を平定するに当たって、武力での鎮圧ではなく、奴隷貿易よりも安定して高収入が得られる海運業・造船業の仕事を与える方策を用いたといわれる。こうして全羅南道の群小海上勢力を傘下に収め、唐・日本と手広く交易活動を行い、中国沿海諸港に居住するイスラーム商人とも交易を行った。このため、張保皐の勢力は東シナ海・黄海海上を制覇し、東アジア一帯の海上王国に発展し、その名前は日本でもよく知られるようになった。 ■張保皐は日本にも来たことがある。張保皐の来朝は正史には記載されていないが、天長元年(824)に張保皐が交易目的で来朝し、筑前太守の須井王(しゅせいのみや、栄井王?)と会ったと、円仁は記している。さらに、帰国するときは8年間も日本に滞在していた新羅人李信忠を連れ帰ったという。
■金祐徴は王位簒奪の成功の暁には張保皐の娘を王妃に迎えると約束していたが、即位後6ヶ月で急死した。神武王の後を継いだ文聖王(在位839-857)は、845年、先王の盟約に従って張保皐の娘を王妃に迎えようとした。しかし、張保皐の身分が卑しいという群臣の反対によって取りやめとなった。これを恨んで張保皐は846年に反乱を起こしたとされている。そこで、文聖王は閻長(ヨムジャン)という剣客を雇い、張保皐の暗殺を命じた。閻長は張保皐に偽装投降し、宴会の席で張保皐を暗殺したという。 ■『三国史記』は張保皐の晩年をこのように反逆者として記述している。しかし、『続日本後紀』は承和(じょうわ)9年(842)1月に新羅人たちが筑紫大津にやってきて、前年(841年)の11月に張保皐が死去したことを伝えている。このように、韓国側の史料と日本側の史料の間には、5年の差がある。 ■円仁と張保皐との接点は何か。円仁は、最後の遣唐使となった承和5年(838)の遣唐使に同行して短期留学の請益僧(しょうやくそう)として唐土に渡った。後述するように、太宰府を出発した承和5年6月13日から帰国する承和14年(847)12月14日までの約9年半にわたる体験を、円仁は『入唐求法巡礼行記』に記録して残した。その中には、円仁と張保皐が直接相まみえた記録はない。 ■だが、太宰府を出発する際、円仁は筑前太守・小野末嗣(おののすえつぐ)から張保皐に宛てた書状を渡されていた。あるいは円仁の紹介状だったかもしれない。赤山滞在中の承和7年(840)2月17日、帰国する彼の部下の崔という地方守備官に、円仁は張保皐に宛てた書簡を託している。写しが『入唐求法巡礼行記』に記されていて、その中に次のような文言がある(前に示した青海鎮大使張保皐碑にも、この部分が引用されている)。
”・・・・。円仁は宿願を果たさんがため唐の地に久しく滞在しています。幸いにも大使本願の地である赤山法華院にとどまることができ、その感懐はとても言葉で表現できるものではありません。 ■書簡に記された”大使本願の地である赤山法華院”とは、山東半島の東端にある港町・赤山に張保皐が創建した寺院である。当時、赤山は多くの新羅商人が居留する港町で、青海鎮大使の管轄下にあった。張保皐は自らも交易のためにたびたび赤山に渡り、そこに法華院を建立し、年に500石の米が収穫できる荘田を寄進した。夏と冬にこの寺院で行われる講会には、200人の新羅人が集ったという。 ■遣唐使が帰国する際に、円仁は不法滞在を覚悟して下船して赤山に立ち寄った。その頃、張保皐は反逆者の汚名を着せられ、新羅の政府軍と戦っている最中だった。だが、円仁が送った書簡は張保皐に届いたのであろう。彼が赤山法華院に留錫したことをきっかけに、張保皐が築き挙げた新羅人の交易ネットワークにさまざまな形で世話になっている。おそらく、唐に在留する張押衙、崔兵馬司など麾下の新羅人に対して、張保皐は円仁に全面的な援護を与えるよう指示したにちがいない。円仁が9年半にもおよぶ長期の求法巡礼の旅を実現できたのは、こうした張保皐の支援のお陰だったと言えよう。 不法滞在を覚悟してまで求法巡礼の旅を行なった円仁とは■承和5年(838)6月13日、藤原常嗣(つねつぐ)を大使とする遣唐使たちを乗せた船が博多を出発していった。この最後の遣唐使で、円仁は請益僧(しょうやくそう)として入唐し、帰国するまでの9年半の日々を唐土で求法巡礼の旅で過ごした。
■元駐日大使ライシャワー氏(1910-90)は『入唐求法巡礼行記』の英訳と研究によって博士号を取得したことはよく知られている。ライシャワー氏はその著書『円仁の唐代中国への旅(Ennin's Travel in T'ang China)』中で、『入唐求法巡礼行記』をマルコ・ポーロの『東方見聞録』や玄奘の『大唐西域記』にも匹敵する大旅行記であると絶賛している。 ■だが、『入唐求法巡礼行記』の価値は旅行記として優れているだけではない。そこには、中国と日本の仏教はもちろん、日中交渉や唐代の政治・制度・風俗・交通・地誌、あるいは会昌の廃仏の記録や在唐新羅人の生活などさまざまなことが記録されている。東洋学の立場からすれば、これらの記録は中国の史料に見られない第一級の貴重な資料である。
■幸い、滋賀県立近代美術館では、「慈覚大師円仁とその名宝」展が開催中だった。この展示では、さまざまな仏教美術の名品によって円仁の事績と日本史上の影響を包括的に紹介していた。お陰で、おおまかながら円仁の人物像とその業績を知ることができた。 ■会場の最初に置かれていたのは、立石寺の円仁の墓とされる入定窟から見つかった木造の頭部である。円仁の死後それほど間を置かないで制作されたと推測されている。やや面長の顔の額に深く刻み込まれた三本のシワ、長い眉毛、大きな鼻、キュッと閉じた唇 − そうした風貌から受ける印象は、枯れた高僧というイメージではない。円仁の全身を表した肖像画でも、肉好きの良いふくよかな体つきだったことを伺わせる。身長5尺7寸(約172cm)だったというから、当時としては大柄な体躯の持ち主だったようだ。その身体に、仏法弘通という激しい情熱を秘めていたにちがいない。
■円仁は下野国(栃木県)都賀郡壬生(みぶ)の出で、延暦13年(794)に豪族壬生氏の子として生まれた。早くから仏教に心を寄せ、9歳のとき下野国の大慈寺に入って広智(こうち)のもとで仏道修行を始めた。15歳のとき最澄が唐から帰国して比叡山延暦寺を開いたときくと、広智に伴われて比叡山に登り、最澄に師事した。当時、最澄は奈良仏教の反撃と真言密教の興隆という二重の障壁の中で天台宗の確立に苦闘していた。円仁はそうした師最澄に忠実に仕え、学問と修行に専念して師から深く愛されたと言われている。
■翌年の弘仁8年(817)から9年にかけて、最澄は東国巡錫を行っている。空海が触手を伸ばし始めた東国の地に最澄自身が赴くことで、当時東国に大きな勢力を張っていた道忠教団の天台化を一層深めることを意図したものであった。円仁はこの東国巡錫に随行し、最澄から伝法灌頂、大乗菩薩戒、および両部灌頂を受けている。 ■弘仁13年(822)6月、師の最澄が没した。その翌年、師の遺命に従って円仁は12年間にわたる比叡山籠山の行に入った。だが、天台教団の諸衆から早く下山して民衆の教化を強く要請され、やむなく山を下りて東国・東北地方を巡錫して教化活動を行った。40歳になった天長10年(833)、視力が弱くなり体に異常を覚えた。そのため、比叡山の横川(よかわ)に草庵を結び、蟄居して如法経書写をおこなう。
■現在の比叡山延暦寺の横川地区は、西塔から奥へ4キロほど入ったところにある。円仁によって開かれた静謐な修行の地で、源信・親鸞・日蓮・道元など後に名僧と讃えられる人物がこの地で修行している。その中心となるのが、嘉祥元年(848)、すなわち円仁が唐から帰国した年に建てられた根本観音堂である。しかし、信長の焼き討ちや雷火によって焼失し、昭和46年(1971)に横川中堂として再建された。横井中堂の近くに根本如法堂がそびえている。円仁が根本杉の洞の中で始めた如法写経にちなんで建てられたものである。
■最澄は、誰でも仏になれると説く「法華経」の実践方法を書いた天台智の「摩訶止観」と、密教の根本教典である「大日経」を専修する宗門として、天台宗を創設した。つまり、天台宗は法華経に密教を加えた二本柱の宗門だった。当時は、天台宗は密教部門を専攻する唯一の宗門だった。しかし、最澄の入唐求法期間が9ヶ月と短かったため、十分な知識が得られなかった。天台宗は胎蔵界のみを専攻するにすぎなかった。 ■承和2年(835)8月、空海は金剛界と胎蔵界の二大法に加えて悉曇(しったん)学を専門とする真言宗を公式に立ち上げた。それにより、密教部門での天台宗の劣勢が明らかになり、その充実が急務となった。さらに、密教の導入によって法華経の教えと大日経の教えをどう整合させるかという教義上の課題もあった。また、空海は真言密教至上主義を主張したのに対し、最澄は「円密一致」を主張した。しかし、円教(=顕教)と密教の関係を明白に示し、それを体系化する理論を熟成しないまま没してしまった。 ■遣唐使に随行して唐に渡るといっても、円仁の場合は、普通の長期留学僧とは異なり、短期留学の請益僧だった。彼の使命は、使節たちとは別行動をとり、天台山に赴いて円密優劣論をはじめ、さまざまな教義上の疑問を解決することにあった。そのために、天台教団の僧侶たちはこぞって疑問を提出し、「義真疑問十ケ条」と「円澄疑問三十ケ条」にまとめられて円仁に託された。ちなみに義真(ぎしん)は、天長元年(824)に就任した初代天台座主であり、円澄は上記のように円仁の兄弟子の第2代天台座主である。
派遣の決定から実際の渡海まで4年半も要した第17次遣唐使派遣■第17次遣唐使の派遣が決定し、遣唐使の任命が行われたのは承和元年(834)正月19日のことである。前回の遣唐使派遣から実に34年ぶりのことだった。参議の藤原朝臣常嗣(ふじわらのあそん・つねつぐ)が持節大使に、小野朝臣篁(おののあそん・たかむら)が副使に任命され、その他に判官4人、録事3人が選ばれた。そして、遣唐使船が造営され、天皇から遣唐大使と副使に節刀を賜ったのは、2年後の承和3年(836)4月29日である。節刀授与の儀式を済ませた一行は、ただちに難波津へ向かった。
■円仁が著した『入唐求法巡礼行記』は筑紫の博多津に停泊してる遣唐使船に乗船した承和5年(838)6月13日から始まっている。つまり、難波津を出向してから実質2年と1ヶ月後に九州を船出したことになる。この間に実にさまざまなことが起きている。主な出来事は2度にわたる渡航の失敗であり、三度目の渡海を前にして、遣唐副使の小野篁(おののたかむら)の乗船拒否である。だが、これらの出来事は円仁の記録からはうかがい知ることができない。
■承和3年5月14日に難波津を出向した四つ船が博多津を出発して五島列島に向かったのは、7月2日である。だが、西風を受けて漂流し、第一船と第四船は肥前の国に帰り着いた。両船とも破損がひどく修理を要するため、博多に戻された。第二船は肥前松浦郡の別島(わけじま)に帰着したが、やはり破損がひどく修理のため、博多に回された。第三船は難破して、船頭以下140余名が海に投げ出され、船板に捕まって漂流した。対馬や肥前に流れ着いて生存が確認されたのは、たった28人だった。 ■船を修理し、遣唐使を編成し直すには日時がかかると判断した遣唐大使の常嗣と副使の篁は、太宰府から引き上げて入京すると、節刀を奉還した。承和3年の9月15日のことである。
■都から彼らのもとに勘発使(かんぱつし)が出向いてきたのは、承和5年(838)の6月である。出帆にふさわしい時期に来ているのに、それをなおざりにしている一行を責め、早く渡海しろと出航を促す勅を携えた使だった。遣唐使側には出発できない事情があった。副使の小野篁が病気で倒れるという不測の事態が起きていた。しかし、勘発使に督促されては、ぐずぐずしているわけにはいかない。円仁が記録しているように6月13日、一行はとりあえず第一船と第四船に乗船して風待ちした。副使の小野篁が乗る第二船はそれより二十日近く遅れて出航したが、出航前に野篁が乗船を拒否するという前代未聞の事件が起きた(ちなみに、小野篁は承和6年(839)正月、国命に従わなかった罪によって隠岐の国に配流された)。 ■小野篁が乗船を拒否した背景はいろいろ推察されている。第一は、大使の常嗣とソリが合わなかったとするものだ。常嗣は最初の渡航を前にして一番良い船を相談もなく自分の乗り込む船に指定してしまったり、三回目の渡航のときは、篁が乗る船を取り替えて自分が乗船する船にしてしまったようだ。そうした大使の態度に篁は堪忍袋の緒が切れたという訳である。 ■別の解釈もある。遣唐使派遣の目的は、当初は唐を中心とする東アジアの国際情勢の情報収集と唐の文化の吸収にあった。しかし、9世紀ともなると、新羅人や唐人が日本へ頻繁にやってくるようになり、予想外の早さで情報が収集できるようになっていた。国内的には律令国家の衰退が目にみえてきていて、膨大な国費を使って大勢の人間を派遣する余裕などない。篁にはそうした内外の情勢が見えていた。そのため、通常ならば2回も渡海に失敗すれば、その時点で中止するはずの使節派遣を、勘発使まで送り込んで渡航させようとする朝廷の態度に篁が反発したというのである。
円仁の苦難に満ちた入唐求法巡礼の旅■円仁は『入唐求法巡礼行記』の中で9年半におよぶ唐土での旅を詳細に綴っている。それは、苦難の連続の求法巡礼の旅だった。 ■円仁が弟子の惟正(ゆいしょう)と惟暁(ゆいぎょう)、および従者の丁勝小麻呂(よぼろのまさおまろ、丁雄満)とともに唐土で過ごした9年半の足跡を、下に示したページで駆け足でたどってみよう。 帰国後の円仁の活動■承和14年(847)9月19日、円仁は約9年半にもおよぶ求法巡礼の旅から九州太宰府に戻ってきた。12月14日には弟子の南忠が比叡山から迎えに来て、翌年の3月26日、無事に帰京した。会昌の仏教弾圧に遭遇し一時は還俗させられるなどさまざまな苦難を乗り越えて、彼が持ち帰ったものは聖教類584部・802巻。仏画・仏具など50種で、空海が招来したものより多いとされている。
■円仁はさらに、熾盛光法(しじょうこうほう)、文殊八字法、普賢延命法といった密教修法や灌頂の儀式をしばしば催し、密教道場としての惣持院や法華経を納める多宝塔を建てて法華惣持院を創設した。また「金剛頂経疏」などを著した。 ■帰国後の円仁は朝廷の信任を得て、斉衡元年(854)に第三代天台座主に任命された。また、官命によって補任となり、清和天皇に菩薩戒を授けた。しかし、貞観5年(863)10月熱病にかかり、翌年の1月14日波乱に富んだ71歳の人生を閉じた。遺骸は延暦寺の北の天梯尾の中腹に埋葬された。 ■2年後の貞観8年(868)、高弟の相応の奏上によって、慈覚大師の諡号(しごう)が追贈された。我が国の大師号の最初である。 【参考・引用文献】・円仁著『入唐求法巡礼行記1,2』(平凡社刊、足立喜六訳注、塩入良道補注)・佐伯有清著『最後の遣唐使』(講談社現代新書520)・『慈覚大師円仁とその名宝』図録(NHKプロモーション作成) |
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2007/10/03作成 by pancho_de_ohsei