2007/09/12
円仁(えんにん)入唐求法(にっとうぐほう)の旅と彼を支えた新羅人・張保皐(チャン・ボゴ)

比叡山延暦寺
琵琶湖側から見た比叡山延暦寺

根本中堂を眼下に見下ろす高台に建つ新羅海上王の顕彰碑

■京都市の鬼門(北東)の方角に聳える標高848mの比叡山は、昔から高野山、恐山と並んで日本三大霊山の一つに数えられてきた。奈良時代も末期の延暦7年(788)、最澄(さいちょう、767〜822)は、比叡山に登り、平安京の鬼門鎮護の為に一乗止観院(後の根本中堂)を山頂に建立した。それが天台宗の総本山延暦寺の始まりとされている。

■比叡山全域に広大な寺域を有する延暦寺は、現在4つの地域に大別されている。山上にある根本中堂を中心とした東塔地区、釈迦堂を中心とした西塔地区、円仁によって開かれた横川(よかわ)地区、それに延暦寺の鎮守社だった日吉大社や本坊だった滋賀院のある山麓の坂本地区の4つである。

延暦寺の中核・根本中堂 根本中堂の正面から文殊楼に続く急な階段
延暦寺の中核・根本中堂 根本中堂の正面から文殊楼に続く急な階段

青海鎮大使張保皐碑
■9月12日の午後2時半ごろ、東塔地区の中枢伽藍である根本中堂の内陣を見学して、筆者はその正門を出た。目の前には、思わず登るのを躊躇したくなるような急峻な石段が、杉木立の間に続いていた。行き着く先は、高台の上に聳える文殊楼である。

■普段なら体調を考えて遠慮してしまいそうな石段を、本日は登り切らなければならなかった。文殊楼は、貞観3年(861)10月に慈覚大師・円仁(794〜864)によって建立された。円仁が中国の五台山に巡礼したとき入手した香木で作った文殊像を安置するためだった。だが、その建物は織田信長の比叡山焼き討ちで焼亡し、現在の文殊楼は寛文18年(1668)に再建されたものである。

青海鎮大使張保皐碑
青海鎮大使張保皐碑
■しかし、本日のお目当ては文殊楼ではない。文殊楼の傍に建っている比較的新しい顕彰碑である。その顕彰碑の存在を、つい最近知った。すると、どのような石碑で、何が書かれているのか無性に知りたくなった。今朝早く橿原のアパートを出て、3時間もかけて延暦寺を訪れた目的は、その顕彰碑の実見にあったと言ってよい。

■息を切らしながら石段を登ると、二階に文殊菩薩を祀る楼が目の前に聳えていた。文殊楼の前を通って左へ進むと、樹木のまばらな植え込みの中に、その顕彰碑は建っていた。亀に似た想像上の動物・贔屓(ひいき)の台座の上に立つ高さ4.2mの黒御影石の碑は、まだ見た目にも新しい。「青海鎮大使張保皐碑」に大書された碑の上部には、竜が彫られた白御影が重そうに載っていた。

張保皐(チャン・ボゴ、ちょうほこう)− 一般には余り知られていないかもしれないが、9世紀の前半に唐・新羅・日本を結ぶ海上交易路を開拓し、海上王と呼ばれた新羅の商人である。後述するように、朝鮮半島西南海域の莞島(ワンド)に生まれた彼は、若くして唐に渡り、軍人として活躍した。帰国して青海鎮(チョンへジン)大使に任ぜられると、新羅人を奴隷として唐に売り払っていた海賊を掃蕩した。そして、新羅、日本、唐3国の海上権を掌握し、新羅の海上交易に大きく貢献した。それだけではない。その頃の唐には、楚州・漣水県の新羅坊をはじめ、赤山村、乳山浦、邵山村などに多くの新羅人が居住していた。張保皐の活動範囲もこれらの地域と重なり、在唐新羅人と深い関わりを持っていた。

石碑を背負う贔 上部に彫られた竜
石碑を背負う贔屓 上部に彫られた竜

■この顕彰碑は、円仁誕生1200周年を記念して2001年12月に建立され、翌年の1月13日に除幕式が行われた。建立したのは、青海鎮があった現在の莞島郡である。建立の目的は、碑の横に置かれた説明板に記されている。

青海鎮大使張保皐碑
張保皐碑建立の趣旨
■その説明板には、円仁が張保皐を欽慕する内容の書簡の一節が引用されていた。彼が『入唐求法巡礼行記』で中で書き残したものだ。この箇所を見いだした延暦寺側は、「ふたりの縁を碑を建てて残すべきだ」と全羅南道莞島郡当局に要請した。莞島郡はこの要請を受け入れて11年間にわたって事業を進め、2001年12月、文殊楼のそばにこの碑を建立した。説明文は「二人の築きあげた深い友情が今後の韓日両国の人々に周知され、両国の友好に寄与することを」と結んでいる。

■莞島(ワンド)郡が地元出身の歴史的英雄を顕彰するのは分かるが、その碑がなぜ比叡山延暦寺の文殊楼の傍に建立されたのか。その理由を知るには、海上王または貿易王の名をほしいままにした青海鎮大使張保皐の活躍と、9年半にわたって入唐求法巡礼の旅を行なった慈覚大師円仁との関わりを理解しなければならない。その関わりを教えてくれたのは、下記の勉強会だった。

 遣唐使の廃止と国風文化

■大阪の環状線「森ノ宮」駅近くに、貸室やホールも利用できる多目的会館「アピオ大阪」がある。毎月第一日曜日、その一室を借りて「日韓古代文化研究会」が定例学習会を開く。筆者お気に入りの勉強会の一つだ。今月は龍谷大学非常勤講師の松波宏隆氏を招いて、「9世紀の海上交易」について講演いただくとの案内状が先月下旬に届いた。

■案内状には、講演の副題に「天台僧の入唐を中心にして」と記されている。9世紀の東アジアの海は新羅の海商が活躍する舞台だった。比叡山延暦寺の基礎を築いた慈覚大師・円仁の入唐求法の旅も、新羅人ネットワークの援助なしには達成できなかったという。9月2日の午後は、どんな話を拝聴できるのか楽しみにアピオ大阪に出かけた。

菅原道真公
菅原道真公
■松波氏の講演は、筆者世代の今までの固定概念を打ち砕くようなりショッキングな話から始まった。その第一は、寛平6年(894)に遣唐大使に任命された菅原道真が建白書を上奏して遣唐使の派遣を”廃止”したとするのは誤りである、と明言された。建白書をよく読めば理解できるように、道真が上奏したのは、遣唐使そのものの”廃止”ではなく、派遣の”延期”だったという。

■言われてみれば、道真が提出した建白書のタイトルは「諸公卿をして遣唐使の進止を議定せしめむことを請ふの状」とある。廃止とはなっていない。派遣延期の理由として、在唐中の僧・中灌(ちゅうかん)が送ってきた書状を引用し、唐の国力が衰退し、唐国内での旅行の危険なことをあげている。つまり、唐国内での旅行の危険がなくなるまで派遣を一時延期すべきだ、というのが道真の建白の趣旨となっている。

■廃止ではなく延期だった証(あかし)として、松波氏は菅原道真がその後も遣唐大使の肩書きを用いていること、遣唐副使に任命された紀長谷雄(きのはせお)も895年から1年以上後にもその肩書きを使っていることを指摘された。だが、唐はその後まもなく907年に滅亡してしまい、中断していた遣唐使が派遣されることがなかった。その結果、道真が遣唐使廃止を建白したと理解されるようになったというのが、松波氏の見方だ。

講演される松波宏隆氏
講演される松波宏隆氏
■次いで、遣唐使の廃止によって唐文化の模倣が終わり平安時代には国風文化が栄えたとする一般的な理解にも、松波氏は疑問を呈された。氏によれば、「国風文化」という概念が強調されだしたのは、大正末期から昭和にかけての頃だそうだ。明治維新で王政復古を実現し、文明開化で西洋文化の導入に奔走し、ようやく列強諸国に追いついた当時、日本は国際社会の中で孤立化し、国の行く末に不安を感じる時代に突入していた。

■その時期に、日本の歴史を見直して新しい地平線を見いだし、それを強調したのが「国風文化」であるという。つまり、我が国は古代に大化の改新で天皇中心の律令国家の体制を導入し、遣唐使を派遣して盛んに唐の制度や文化を模倣し、我が国も東アジアの小中華になろうと努力してきた。だが、遣唐使の廃止によって、外交的・文化的に孤立したしたとき、平安時代には新たに国風文化を開化させたではないか。それと同じように、列強に追いつきながらも国際的に孤立した日本は、必ずや独自の新しい文化を創造して先に進むことができる、とする歴史観が生み出したのが「国風文化」であるという。

■だが、松波氏によれば、奈良時代よりも、遣唐使が廃止された平安時代の方が、唐などの海外文化の移入量は多かったようだ。遣唐使の廃止によって、確かに唐王朝から下賜される品々は入手できなくなり、天皇家や特権貴族による外来品の独占や分配は不可能になった。だが、9世紀に入ると、新羅や渤海が積極的に海外交易に乗り出し、遣唐使を介在させなくても、我が国は多くの唐の文物を入手できるようになった。新羅の大商人団によって、唐や西域・南海の文物のみならず、ニンジン・松の実・ハチミツなども日本にもたらされている。

■国風文化の騎手として、よく紫式部清少納言の名があげられる。松波氏は面白い指摘をされた。彼女たちの教養を高めたのは、それまで一部の王侯・貴族しか入手できなかった漢籍が、新羅や渤海の商人たちによって中国から大量に我が国に移入され、その結果、彼女たちの生家である中流貴族の家でも容易に接することができるようになったためであるという。

■以上が松波氏の講演の序論である。同氏の講演の骨子は、9世紀の東アジアの海上交易は新羅商人のネットワークによって維持され、円仁をはじめとする入唐僧はそのネットワークの支援なくしては実現できなかった点の指摘だった。

9世紀前半の海上交易で活躍した新羅の張保皐(チャン・ボゴ)

KBSテレビドラマ「海神」
KBSテレビドラマ「海神」
■韓国の作家チェ・インホは張保皐(チャン・ボゴ、ちょうほこう)の一代記を小説『海神(ヘシン)』にまとめた。その小説を脚色した同名のテレビ映画が、韓国のKBSテレビで2004年から2005年にかけて放映され、高視聴率をマークしたという。

■だが、後に海上王または貿易王という修飾語を持って語られる張保皐の実像は、あまり良く知られていない。史書から描き出すことができる彼の一代記はおよそ次のようなものだ。

■張保皐は790年ごろ新羅西南海の莞島で生まれた。韓国名を弓福(クンボク)と言った。810年頃に中国の山東半島に渡り、その地の軍閥勢力であった徐州武寧軍に入って、高句麗出身の北方軍閥・李正已と戦った。軍人として活躍した張保皐は徐州節度使配下の武寧軍小将の地位を得ている。張保皐というのは彼の漢名である。円仁の著書『入唐求法巡礼行記』では、張宝高(ちょう ほこう)と記されている。

■828年頃、張保皐は新羅に帰国すると、東アジアの海上で人身売買が横行し、新羅人が中国で奴隷として盛んに売買されているのに義憤を感じて、興徳王に面会して実情を報告した。すると、興徳王は張保皐に兵1万を授けて清海鎮大使に任命し、奴隷貿易禁圧を命じた。そこで、彼は莞島に清海鎮を設置して根拠地とし、海賊を掃討し安全で平和な航路を開いた。

■張保皐は、海賊達を平定するに当たって、武力での鎮圧ではなく、奴隷貿易よりも安定して高収入が得られる海運業・造船業の仕事を与える方策を用いたといわれる。こうして全羅南道の群小海上勢力を傘下に収め、唐・日本と手広く交易活動を行い、中国沿海諸港に居住するイスラーム商人とも交易を行った。このため、張保皐の勢力は東シナ海・黄海海上を制覇し、東アジア一帯の海上王国に発展し、その名前は日本でもよく知られるようになった。

■張保皐は日本にも来たことがある。張保皐の来朝は正史には記載されていないが、天長元年(824)に張保皐が交易目的で来朝し、筑前太守の須井王(しゅせいのみや、栄井王?)と会ったと、円仁は記している。さらに、帰国するときは8年間も日本に滞在していた新羅人李信忠を連れ帰ったという。

莞島周辺地図
莞島周辺地図
■836年、第42代興徳王が死去すると、上大等職にあった金均貞とその甥の金悌隆(後の僖康王)との間に王位継承をめぐって争いが起こった。金祐徴(後の神武王)は父均貞を奉じて戦ったが破れ、青海鎮大使張保皐のもとに身を寄せてきた。838年、僖康王を擁立した金明が反乱を起こし、僖康王を殺して838年1月に閔哀王として即位すると、金祐徴は閔哀王を撃つ支援を張保皐に求めた。そこで、張保皐は、たまたま彼を頼って唐から来ていた友人の鄭年(チョンニョン)に5千の兵を与えて閔哀王を討たせ、金祐徴を神武王(在位 839.1 - 839.7)として即位させた。

■金祐徴は王位簒奪の成功の暁には張保皐の娘を王妃に迎えると約束していたが、即位後6ヶ月で急死した。神武王の後を継いだ文聖王(在位839-857)は、845年、先王の盟約に従って張保皐の娘を王妃に迎えようとした。しかし、張保皐の身分が卑しいという群臣の反対によって取りやめとなった。これを恨んで張保皐は846年に反乱を起こしたとされている。そこで、文聖王は閻長(ヨムジャン)という剣客を雇い、張保皐の暗殺を命じた。閻長は張保皐に偽装投降し、宴会の席で張保皐を暗殺したという。

■『三国史記』は張保皐の晩年をこのように反逆者として記述している。しかし、『続日本後紀』は承和(じょうわ)9年(842)1月に新羅人たちが筑紫大津にやってきて、前年(841年)の11月に張保皐が死去したことを伝えている。このように、韓国側の史料と日本側の史料の間には、5年の差がある。

■円仁と張保皐との接点は何か。円仁は、最後の遣唐使となった承和5年(838)の遣唐使に同行して短期留学の請益僧(しょうやくそう)として唐土に渡った。後述するように、太宰府を出発した承和5年6月13日から帰国する承和14年(847)12月14日までの約9年半にわたる体験を、円仁は『入唐求法巡礼行記』に記録して残した。その中には、円仁と張保皐が直接相まみえた記録はない。

■だが、太宰府を出発する際、円仁は筑前太守・小野末嗣(おののすえつぐ)から張保皐に宛てた書状を渡されていた。あるいは円仁の紹介状だったかもしれない。赤山滞在中の承和7年(840)2月17日、帰国する彼の部下の崔という地方守備官に、円仁は張保皐に宛てた書簡を託している。写しが『入唐求法巡礼行記』に記されていて、その中に次のような文言がある(前に示した青海鎮大使張保皐碑にも、この部分が引用されている)。

”・・・・。円仁は宿願を果たさんがため唐の地に久しく滞在しています。幸いにも大使本願の地である赤山法華院にとどまることができ、その感懐はとても言葉で表現できるものではありません。
 円仁は日本を発つにあたって、筑前の太守から大使にあてた書状を預かりました。しかし唐に渡る際、船が座礁し、その書状は波に流されてしまいました。自責の念に日夜苛まれています。どうかけしからぬとおしかりにならないよう、伏してお願い申し上げます。
 いつお会いできるかはわかりませんが、一日も早くその機会が来ないものかと願っております。ここに書状をもって御機嫌をうかがう次第です。
 開成5(840)年2月17日 日本国求法僧伝灯法師位 円仁 状上、
 清海鎮大使 麾下(きか)謹空”

■書簡に記された”大使本願の地である赤山法華院”とは、山東半島の東端にある港町・赤山に張保皐が創建した寺院である。当時、赤山は多くの新羅商人が居留する港町で、青海鎮大使の管轄下にあった。張保皐は自らも交易のためにたびたび赤山に渡り、そこに法華院を建立し、年に500石の米が収穫できる荘田を寄進した。夏と冬にこの寺院で行われる講会には、200人の新羅人が集ったという。

■遣唐使が帰国する際に、円仁は不法滞在を覚悟して下船して赤山に立ち寄った。その頃、張保皐は反逆者の汚名を着せられ、新羅の政府軍と戦っている最中だった。だが、円仁が送った書簡は張保皐に届いたのであろう。彼が赤山法華院に留錫したことをきっかけに、張保皐が築き挙げた新羅人の交易ネットワークにさまざまな形で世話になっている。おそらく、唐に在留する張押衙崔兵馬司など麾下の新羅人に対して、張保皐は円仁に全面的な援護を与えるよう指示したにちがいない。円仁が9年半にもおよぶ長期の求法巡礼の旅を実現できたのは、こうした張保皐の支援のお陰だったと言えよう。

不法滞在を覚悟してまで求法巡礼の旅を行なった円仁とは

■承和5年(838)6月13日、藤原常嗣(つねつぐ)を大使とする遣唐使たちを乗せた船が博多を出発していった。この最後の遣唐使で、円仁は請益僧(しょうやくそう)として入唐し、帰国するまでの9年半の日々を唐土で求法巡礼の旅で過ごした。

入唐求法巡礼行記
『入唐求法巡礼行記』
■彼は日々の出来事を日記に書き記し、『入唐求法巡礼行記』として後世に残した。全4巻、文字数にして9万字におよぶ膨大な旅行記である。原本は失われたが、幸い京都祇園の長楽寺の兼胤という僧が72歳の時に書写してくれていた。正応4年(1291)のことである。明治の中期にその写本が京都の東寺観智院で見つかった。

■元駐日大使ライシャワー氏(1910-90)は『入唐求法巡礼行記』の英訳と研究によって博士号を取得したことはよく知られている。ライシャワー氏はその著書『円仁の唐代中国への旅(Ennin's Travel in T'ang China)』中で、『入唐求法巡礼行記』をマルコ・ポーロの『東方見聞録』や玄奘の『大唐西域記』にも匹敵する大旅行記であると絶賛している。

■だが、『入唐求法巡礼行記』の価値は旅行記として優れているだけではない。そこには、中国と日本の仏教はもちろん、日中交渉や唐代の政治・制度・風俗・交通・地誌、あるいは会昌の廃仏の記録や在唐新羅人の生活などさまざまなことが記録されている。東洋学の立場からすれば、これらの記録は中国の史料に見られない第一級の貴重な資料である。


「慈覚大師円仁とその名宝」展のチラシ
「慈覚大師円仁とその名宝」展のチラシ
■延暦24年(805)、唐から帰国した最澄(767 - 822)は、翌年の大同元年(806)、比叡山に天台宗を開いた。今から1200年前のことである。その最澄の教えを広め、天台宗発展の基礎を築き、比叡山を日本仏教の母山としたのは、他ならぬ円仁(794 - 864)その人である。9年半におよぶ苦難の入唐求法の旅の末に帰国して第三代天台座主につき、71歳で没したが、その2年後に我が国最初の大師号「慈覚大師」を贈られた円仁という人物 − 俄然、この人物に興味が湧いて、彼を入唐求法の旅に導いた背景をすこし調べてみる気になった。

■幸い、滋賀県立近代美術館では、「慈覚大師円仁とその名宝」展が開催中だった。この展示では、さまざまな仏教美術の名品によって円仁の事績と日本史上の影響を包括的に紹介していた。お陰で、おおまかながら円仁の人物像とその業績を知ることができた。

■会場の最初に置かれていたのは、立石寺の円仁の墓とされる入定窟から見つかった木造の頭部である。円仁の死後それほど間を置かないで制作されたと推測されている。やや面長の顔の額に深く刻み込まれた三本のシワ、長い眉毛、大きな鼻、キュッと閉じた唇 − そうした風貌から受ける印象は、枯れた高僧というイメージではない。円仁の全身を表した肖像画でも、肉好きの良いふくよかな体つきだったことを伺わせる。身長5尺7寸(約172cm)だったというから、当時としては大柄な体躯の持ち主だったようだ。その身体に、仏法弘通という激しい情熱を秘めていたにちがいない。

慈覚大師頭部像(*) 国宝 慈覚大師画像
重文 慈覚大師頭部像(立石寺)* 国宝 慈覚大師画像部分(一乗寺)*

■円仁は下野国(栃木県)都賀郡壬生(みぶ)の出で、延暦13年(794)に豪族壬生氏の子として生まれた。早くから仏教に心を寄せ、9歳のとき下野国の大慈寺に入って広智(こうち)のもとで仏道修行を始めた。15歳のとき最澄が唐から帰国して比叡山延暦寺を開いたときくと、広智に伴われて比叡山に登り、最澄に師事した。当時、最澄は奈良仏教の反撃と真言密教の興隆という二重の障壁の中で天台宗の確立に苦闘していた。円仁はそうした師最澄に忠実に仕え、学問と修行に専念して師から深く愛されたと言われている。

伝教大師・最澄
伝教大師・最澄(*)
■最澄のもとで、天台智(てんだいちぎ)が著した『摩訶止観』(まかしかん)を円仁は徹底的に学んだ。そして、弘仁4年(813)の暮れに官試に合格し、天台宗年分度者になった。年分度者とは、毎年国が一定数の僧を得度させる国家公認の得度僧のことで、当時、天台宗では「大昆慮遮那経」(大日経)専攻の「遮那業」と「摩訶止観」専攻の「止観業」からそれぞれ一人得度させることができた。弘仁7年(816)には、東大寺で具足戒を受け僧侶になった。円仁23歳の時である(ちなみに、この年、空海が高野山を開いている)。

■翌年の弘仁8年(817)から9年にかけて、最澄は東国巡錫を行っている。空海が触手を伸ばし始めた東国の地に最澄自身が赴くことで、当時東国に大きな勢力を張っていた道忠教団の天台化を一層深めることを意図したものであった。円仁はこの東国巡錫に随行し、最澄から伝法灌頂、大乗菩薩戒、および両部灌頂を受けている。

■弘仁13年(822)6月、師の最澄が没した。その翌年、師の遺命に従って円仁は12年間にわたる比叡山籠山の行に入った。だが、天台教団の諸衆から早く下山して民衆の教化を強く要請され、やむなく山を下りて東国・東北地方を巡錫して教化活動を行った。40歳になった天長10年(833)、視力が弱くなり体に異常を覚えた。そのため、比叡山の横川(よかわ)に草庵を結び、蟄居して如法経書写をおこなう。

横川の中心となる横川中堂 横川の根本如法塔
横川地区の中心に建つ横川中堂 横川の根本如法塔

■現在の比叡山延暦寺の横川地区は、西塔から奥へ4キロほど入ったところにある。円仁によって開かれた静謐な修行の地で、源信・親鸞・日蓮・道元など後に名僧と讃えられる人物がこの地で修行している。その中心となるのが、嘉祥元年(848)、すなわち円仁が唐から帰国した年に建てられた根本観音堂である。しかし、信長の焼き討ちや雷火によって焼失し、昭和46年(1971)に横川中堂として再建された。横井中堂の近くに根本如法堂がそびえている。円仁が根本杉の洞の中で始めた如法写経にちなんで建てられたものである。

第2代天台座主・円澄
第2代天台座主・円澄(*)
■承和2年(835)、入唐留学の詔勅が42歳になった円仁に下った。円仁の兄弟子であり、前年の承和元年に第2代天台座主に就任したばかりの円澄(えんちょう)の強力な推挽によるものだった。当時の天台教団は重要な課題を抱えていた。密教部門の充実と、円密優劣に関する疑問解決である。

■最澄は、誰でも仏になれると説く「法華経」の実践方法を書いた天台智の「摩訶止観」と、密教の根本教典である「大日経」を専修する宗門として、天台宗を創設した。つまり、天台宗は法華経に密教を加えた二本柱の宗門だった。当時は、天台宗は密教部門を専攻する唯一の宗門だった。しかし、最澄の入唐求法期間が9ヶ月と短かったため、十分な知識が得られなかった。天台宗は胎蔵界のみを専攻するにすぎなかった。

■承和2年(835)8月、空海は金剛界胎蔵界の二大法に加えて悉曇(しったん)学を専門とする真言宗を公式に立ち上げた。それにより、密教部門での天台宗の劣勢が明らかになり、その充実が急務となった。さらに、密教の導入によって法華経の教えと大日経の教えをどう整合させるかという教義上の課題もあった。また、空海は真言密教至上主義を主張したのに対し、最澄は「円密一致」を主張した。しかし、円教(=顕教)と密教の関係を明白に示し、それを体系化する理論を熟成しないまま没してしまった。

■遣唐使に随行して唐に渡るといっても、円仁の場合は、普通の長期留学僧とは異なり、短期留学の請益僧だった。彼の使命は、使節たちとは別行動をとり、天台山に赴いて円密優劣論をはじめ、さまざまな教義上の疑問を解決することにあった。そのために、天台教団の僧侶たちはこぞって疑問を提出し、「義真疑問十ケ条」と「円澄疑問三十ケ条」にまとめられて円仁に託された。ちなみに義真(ぎしん)は、天長元年(824)に就任した初代天台座主であり、円澄は上記のように円仁の兄弟子の第2代天台座主である。

派遣の決定から実際の渡海まで4年半も要した第17次遣唐使派遣

■第17次遣唐使の派遣が決定し、遣唐使の任命が行われたのは承和元年(834)正月19日のことである。前回の遣唐使派遣から実に34年ぶりのことだった。参議の藤原朝臣常嗣(ふじわらのあそん・つねつぐ)が持節大使に、小野朝臣篁(おののあそん・たかむら)が副使に任命され、その他に判官4人、録事3人が選ばれた。そして、遣唐使船が造営され、天皇から遣唐大使と副使に節刀を賜ったのは、2年後の承和3年(836)4月29日である。節刀授与の儀式を済ませた一行は、ただちに難波津へ向かった。

遣唐使船の構成
遣唐使船の構成
■その中に、天台宗発展の期待を一身に背負って唐土に渡る円仁の姿があった。5月13日、円仁は遣唐使の一行と共に、難波津に停泊中の4隻の遣唐使船に乗り込んだ。当時の遣唐使船は四つ船と呼ばれていた。水夫たちを含めて600余名からなる使節団が4隻の船に分乗して渡海したからである。彼らの出発はその翌日の5月14日だった。

■円仁が著した『入唐求法巡礼行記』は筑紫の博多津に停泊してる遣唐使船に乗船した承和5年(838)6月13日から始まっている。つまり、難波津を出向してから実質2年と1ヶ月後に九州を船出したことになる。この間に実にさまざまなことが起きている。主な出来事は2度にわたる渡航の失敗であり、三度目の渡海を前にして、遣唐副使の小野篁(おののたかむら)の乗船拒否である。だが、これらの出来事は円仁の記録からはうかがい知ることができない。

遣唐使船の航路
遣唐使船の航路
■第17次遣唐船が取った航路は南路と呼ばれ、博多津を出航し、値嘉島(五島)、相子田の停(上五島青方)、川原浦(岐宿川原)などの港で風待ちしながら、最後に美弥良久の崎(三井楽柏崎)から一気に東シナ海を横断して、中国大陸を目指すコースである。うまくいけば航海期間を大幅に短縮できる最短のコースだが、外洋を最も長く航海するため、非常に危険性の高い航路でもあった。

■承和3年5月14日に難波津を出向した四つ船が博多津を出発して五島列島に向かったのは、7月2日である。だが、西風を受けて漂流し、第一船と第四船は肥前の国に帰り着いた。両船とも破損がひどく修理を要するため、博多に戻された。第二船は肥前松浦郡の別島(わけじま)に帰着したが、やはり破損がひどく修理のため、博多に回された。第三船は難破して、船頭以下140余名が海に投げ出され、船板に捕まって漂流した。対馬や肥前に流れ着いて生存が確認されたのは、たった28人だった。

■船を修理し、遣唐使を編成し直すには日時がかかると判断した遣唐大使の常嗣と副使の篁は、太宰府から引き上げて入京すると、節刀を奉還した。承和3年の9月15日のことである。

嵐の中の遣唐使船のイメージ
嵐の中の遣唐使船のイメージ
■明けて承和4年(837)3月15日、再び遣唐使に節刀を賜る儀式が行われ、大使の常嗣は平安京の鴻臚館から太宰府へ向かった。それから3ヶ月後、遣唐使の三隻の船が博多津を出向したが、たちまち逆風にあって第一船と第四船は壱岐に流されてしまった。第二船は臨機の処置によって値賀島(ちかしま)に漂着した。こうして二回目の渡海も失敗したが、今回は常嗣や篁が都に戻った形跡はない。三度目の出向に備えて太宰府にとどまっていたのであろう。

■都から彼らのもとに勘発使(かんぱつし)が出向いてきたのは、承和5年(838)の6月である。出帆にふさわしい時期に来ているのに、それをなおざりにしている一行を責め、早く渡海しろと出航を促す勅を携えた使だった。遣唐使側には出発できない事情があった。副使の小野篁が病気で倒れるという不測の事態が起きていた。しかし、勘発使に督促されては、ぐずぐずしているわけにはいかない。円仁が記録しているように6月13日、一行はとりあえず第一船と第四船に乗船して風待ちした。副使の小野篁が乗る第二船はそれより二十日近く遅れて出航したが、出航前に野篁が乗船を拒否するという前代未聞の事件が起きた(ちなみに、小野篁は承和6年(839)正月、国命に従わなかった罪によって隠岐の国に配流された)。

■小野篁が乗船を拒否した背景はいろいろ推察されている。第一は、大使の常嗣とソリが合わなかったとするものだ。常嗣は最初の渡航を前にして一番良い船を相談もなく自分の乗り込む船に指定してしまったり、三回目の渡航のときは、篁が乗る船を取り替えて自分が乗船する船にしてしまったようだ。そうした大使の態度に篁は堪忍袋の緒が切れたという訳である。

■別の解釈もある。遣唐使派遣の目的は、当初は唐を中心とする東アジアの国際情勢の情報収集と唐の文化の吸収にあった。しかし、9世紀ともなると、新羅人や唐人が日本へ頻繁にやってくるようになり、予想外の早さで情報が収集できるようになっていた。国内的には律令国家の衰退が目にみえてきていて、膨大な国費を使って大勢の人間を派遣する余裕などない。篁にはそうした内外の情勢が見えていた。そのため、通常ならば2回も渡海に失敗すれば、その時点で中止するはずの使節派遣を、勘発使まで送り込んで渡航させようとする朝廷の態度に篁が反発したというのである。

円仁の苦難に満ちた入唐求法巡礼の旅

■円仁は『入唐求法巡礼行記』の中で9年半におよぶ唐土での旅を詳細に綴っている。それは、苦難の連続の求法巡礼の旅だった。

■円仁が弟子の惟正(ゆいしょう)と惟暁(ゆいぎょう)、および従者の丁勝小麻呂(よぼろのまさおまろ、丁雄満)とともに唐土で過ごした9年半の足跡を、下に示したページで駆け足でたどってみよう。

円仁の『大唐求法巡礼行記』概要

帰国後の円仁の活動

■承和14年(847)9月19日、円仁は約9年半にもおよぶ求法巡礼の旅から九州太宰府に戻ってきた。12月14日には弟子の南忠が比叡山から迎えに来て、翌年の3月26日、無事に帰京した。会昌の仏教弾圧に遭遇し一時は還俗させられるなどさまざまな苦難を乗り越えて、彼が持ち帰ったものは聖教類584部・802巻。仏画・仏具など50種で、空海が招来したものより多いとされている。

黒石寺の伝慈覚大師座像
黒石寺の伝慈覚大師座像(*)
■円仁は長安で元政・義真・法全らから密教を伝授され、胎蔵界、金剛界、蘇悉地(そしつじ)の三部の法に基づく最新の知識を仕入れてきた。そして、胎蔵界と金剛界の両部のみではなく、三部を立てる天台密教の基礎を確立した。さらに、釈迦如来と大日如来は本来一体であるとする「円密一致」の考え方を教わり、大乗仏教(顕教)と密教は同等であることを説いた。

■円仁はさらに、熾盛光法(しじょうこうほう)、文殊八字法、普賢延命法といった密教修法や灌頂の儀式をしばしば催し、密教道場としての惣持院や法華経を納める多宝塔を建てて法華惣持院を創設した。また「金剛頂経疏」などを著した。

■帰国後の円仁は朝廷の信任を得て、斉衡元年(854)に第三代天台座主に任命された。また、官命によって補任となり、清和天皇に菩薩戒を授けた。しかし、貞観5年(863)10月熱病にかかり、翌年の1月14日波乱に富んだ71歳の人生を閉じた。遺骸は延暦寺の北の天梯尾の中腹に埋葬された。

■2年後の貞観8年(868)、高弟の相応の奏上によって、慈覚大師の諡号(しごう)が追贈された。我が国の大師号の最初である。


【参考・引用文献】・円仁著『入唐求法巡礼行記1,2』(平凡社刊、足立喜六訳注、塩入良道補注)・佐伯有清著『最後の遣唐使』(講談社現代新書520)・『慈覚大師円仁とその名宝』図録(NHKプロモーション作成)


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  (*)「慈覚大師円仁とその名宝」の図録より転載

2007/10/03作成 by pancho_de_ohsei