橿原日記 平成19年9月8日

藤原宮跡(ふじわらきゅうせき)で見つかった大極殿院(だいごくでんいん)南門の基壇跡

大極殿跡から南門の発掘現場を見る
炎天下にも関わらず現地説明会に参集した多くの考古学・古代史ファン (2007/09/08 撮影)

律令国家の象徴? 壮大な規模を誇った大極殿院の正門

現地説明会資料の表紙
現地説明会資料の表紙(*)
良県橿原市の高殿町には、藤原宮跡(ふじわらきゅうせき)がある。奈良文化財研究所(以下、奈文研)は、その大極殿院の正門とされる南門の跡を本年4月から発掘調査してきたが、去る9月6日、門の土台にあたる基壇の跡を確認したとマスメディアに発表した。基壇の大きさは従来の推定を遙かに超えて、なんと東西約39。1m、南北14mだった。

盤のこの規模は、前期難波宮(なにわのみや)の内裏南門(東西35m、南北15m)や平城宮の大極殿院南門(東西28m、南北16m)の基壇をはるかに上回り、現在までに発掘された門の基壇としては国内最大級である。奈文研は、この基壇の上に「律令国家の完成を象徴する立派な門構え」の南門が聳えていたとみている。

国紙の各紙はこの記者発表を大々的に報道した。そして、本日の午後1時半から現地説明会が開かれると伝えた。新聞報道を見た考古学/古代史ファンは、本日の正午過ぎから続々と藤原宮跡に詰めかけてきた。

月に入っても奈良県は連日極暑が続き、橿原の大地は燃えるように暑い。その暑さもなんのその、彼ら一人一人を現説の会場へ赴かせたのは、それぞれが胸に描いた新しい古代のロマンだったにちがいない。藤原京は、また一つ歴史の謎を生んだ。藤原京は後継の都城である平城京のそれを上回る巨大施設の建設が、なぜ必要だったのか。

原京は壬申の乱に勝利した天武天皇が、律令国家の象徴として計画した都城である。存命中にその夢を実現できなかったが、皇后の持統天皇が夫の夢を引き継いだ。持統5年(691)10月27日、持統女帝は使者を遣わして藤原京の地鎮祭をおこなわせ、翌年の5月23日には、難波王らを遣わして、藤原宮を築く場所の地鎮祭をおこなわせている。

今回の調査区
今回の調査対象となった南門跡の位置(*)
れから2年後の持統8年(694)12月6日には、それまでの王宮だった飛鳥浄御原(あすかきよみがはら)から藤原京への遷都を敢行した。たかだか3年の歳月で、藤原京が完成したとはとても思えない。新都造りで橿原の地はどこもかしこも騒然としていたはずである。それにもかかわらず、あわただしい遷都行事が年の瀬が押し迫った中で行われた。

うして遷都した藤原京のプランは、おそらく天武・持統が中心となって練り上げられたに違いなく、律令国家の王都としてふさわしい我が国最初の本格的な都城だった。その中心に位置していた藤原宮は、それから16年間、持統・文武・元明三代の天皇が宮居としたところである。

の場所は、北を藤原京の二条大路、南を六条大路、東と西をそれぞれ二坊大路で囲まれていた。藤原宮の中軸線上には、北から内裏、その南辺に天皇が政務を行なった大極殿院と大極殿、その南には役人が政務にあたる朝堂院(ちょうどういん)が広がり、両脇に計十二の殿堂を配されていた。

門は藤原宮の中央に位置し、大極殿院の正門であると同時に大極殿と朝堂院を区切る重要な門だった。そのため、誰もが、例えば平城京跡に復元された朱雀門のように重層の朱塗りの楼門を心に思い描いていたにちがいない。だが発掘調査は、そうしたイメージを打ち砕く結果をもたらした。

発掘担当者がイメージした南門
発掘担当者がイメージした南門(*)
壇の規模から、復元可能な南門は重層の楼門ではなく、東西35m、南北10mの細長い木造の門で、東西8本南北3本の柱を持つ平屋構造の建物だったと判断された。しかも、今までの発掘史上最大の規模を持つ基壇の上に築かれたのは、5つの扉を持つ横長の細長い廊下のような門だった。誰しもが、なぜこのような門が建てられたのか疑問を抱いたことであろう。

門が単なる出入り口としての門でなかったことは、誰でも想像できる。おそらく天武・持統の両帝は、律令国家の象徴としてもう一つの重要な側面をこの門に持たせたにちがいない。その可能性の一つとして、律令国家を象徴する見栄え重視の儀式の場だった、との指摘が早くも専門家の間から出ている。重要な儀式の場で、多人数が一度に通ることもあって、幅を広くしたのではないかというのである。



律令政治の幕開けを飾る壮麗な元日朝賀の儀

大極殿跡から南門の発掘現場を見る
大極殿跡から南門跡の発掘現場を見る


地説明会の会場は橿原で借りているアパートに近いので、本日は愛用のチャリンコで駆けつけた。説明会の開始までには、まだ時間があった。発掘現場の様子や展示パネルの写真をデジカメで撮影した後、受付で説明会の資料を貰って、大極殿跡の林が作る木陰で一息入れた。その場所から南の方角に視線を投げると、50mほど先に発掘現場があり、さらにその先に、大極殿院の南門を復元イメージした朱塗りの列柱が並んでいた。

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南門前で繰り広げられた朝廷の儀式(*)
(イメージの原作:イラストレータの早川和子さん)
示パネルには、南門前で繰り広げられた朝廷の儀式のイメージイラストが張ってあった。イラストレータの早川和子さんが描いたものである。そのイメージに触発されて、大宝元年の元日朝賀の様子がぼんやりと空想できた。

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武天皇の治世5年目(西暦701年)の新しい年が明けた。正月元旦の朝を告げる太陽が、東の空に昇った。太陽の光は、藤原宮の大極殿の屋根をまぶしく照らし出した。この朝、朝堂院の庭に整列した貴族や役人たちは、朝日を浴びて輝く重層の大極殿を、低い平屋の南門の屋根越しに眺めたにちがいない。

しい年の日の出を待っていたように、宮廷雅楽隊が演奏する荘重な調べが藤原宮に響き渡った。それが合図だった。数え年で19歳を迎えたにすぎない若き天皇・文武は、祖母であり、また先の天皇だった持統皇太后とともに、大極殿に出御して高御座(たかみくら)に着席した。元日の朝に天皇が貴族や役人から年始の挨拶をうける元日朝賀の儀はこうして始まった。

が最高潮に達したとき、文武天皇は高御座を下り、歩を南門まで進めて貴族や役人から年始の挨拶をうけたはずである。参列者が唱和する「天皇、万歳」の声は、おそらく藤原宮に響き渡ったことであろう。


朝堂院側から見た南門の復元イメージ
朝堂院側から見た南門の復元イメージ
日朝賀は、律令制下の重要な儀式である。とりわけこの年の儀式は、律令政治の幕開けを飾るにふさわしい壮麗な儀式だったようだ。南門の前には、青龍、白虎、朱雀、玄武の四神を描いた7本の憧旛(どうばん、旗)が立てられた。

堂院に整列した貴族や役人に混じって、この年は朝鮮半島を統一した新羅の外交使節も参列し百官とともに左右に並んだ。『続日本紀』は「大宝元年の正月、文武天皇が大極殿に出御して元日朝賀の儀が執り行われた」と伝え、さらに続けて、「文物の儀、ここに備われり」と記している。


大極殿跡(奥の植え込み)と大極殿院南門跡(手前の発掘現場)
大極殿跡(奥の植え込み)と
大極殿院南門跡(手前の発掘現場)(*)
宝元年(西暦701年)は、確かに我が国の律令政治の画期となる年だった。この年、律令政治の根幹をなす大宝律令が完成した(公布は翌年)。この年の3月21日には、律令政治の完成者ともいうべき藤原不比等(ふじわらのふひと)が正三位大納言に昇進している。また、12月27日には不比等が4年前に入内させた娘の宮子が首(おびと)皇子を産んでいる。後の聖武天皇である。

が、元日朝賀が執り行われた時点では、まだ「大宝」という元号は存在しない。対馬から金が献上されたのを寿ぎ、32年ぶりに元号を復活させ新しく「大宝」という元号を制定したのは、その年の3月21日のことである。

いでに言えば、当時我が国で使用されていた暦は儀鳳暦(ぎほうれき)という。文武5年正月元旦は、ユリウス歴の701年2月13日にあたる。奈良盆地が一年の内で最も冷え込む時期で、早朝から元日朝儀に参列した貴族や百官は、さぞかし大変な思いをしたことであろう。

ころで、奈文研の発掘調査は、早川和子さんが元日朝賀の儀をイメージした上記のイラストに誤りがあることを指摘することとなった。藤原宮の大極殿院南門は重層の楼門ではなかった。どうやら、重層の楼門ではなく平屋の建造物だったことに、南門の重要性が秘められているようだ。

で現地説明を担当した奈文研の高田貫太研究員は「朝堂院に並んだ百官たちの目には、荘厳な南門の向こうに天皇のいる大極殿が見えたのかもしれない」と話された。すなわち、朝堂院の庭に参列した人々は、皇族や役人、あるいは外国の使節を問わず、南門の屋根越しに天皇が臨席する大極殿を仰ぎ見ることになり、律令制度における天皇の威厳を視覚的に実感させられたであろう。南門は大極殿をより一層荘厳に見せるための仕掛けであり舞台として機能した。



版築工法で築かれた南門の基壇

発掘現場を見学する参加者たち
発掘現場を見学する参加者たち


後1時半きっかりに、現地説明会が始まった。奈文研は今年の4月から実施してきたのは、飛鳥・藤原第148次発掘調査である。調査の目的は南門基壇の正確な規模や構成方法、南門自体の規模や構造、大極殿院回廊との関係などを明らかにすることに置かれた。

は、戦前の1940年に日本古文化研究所が南門の部分的な調査を行っており、東西方向に列をなず石材を11個確認している。そして、これらの石材を基壇の北辺と考え、基壇の規模を長さ100尺程、幅50尺と推定していた。しかし、礎石などは確認しておらず、南門の具体的な構造も不明のままだった。

南門跡の遺構図
南門跡の遺構図(*)
文研は今年の4月から約1560平米を調査した。調査では敷地の土を東西44m、南北20mにわたって掘り下げた。すると、その下から土層を版築(はんちく)と呼ばれる工法で高さ1.5mまで積み上げた南門の基壇跡が見つかった。場所は、天皇が執務した大極殿の跡の約50m南である。

図で青く塗りつぶした部分は基壇の跡を示す。この基壇の規模は日本古文化研究所の推定を遙かに上回り、東西約39。1m、南北14mだった。これまでに確認されている宮殿遺跡の大極殿院南門基壇としては、国内最大の規模である。

日本古文化研究所が発見した石材
日本古文化研究所が発見した石材
た、日本古文化研究所が基壇外装の一部と見なした石材は、実は北面階段の一段目として用いられた石と判明した。南門の南面にも石を抜き取った跡があり、南面にも階段があった。階段部分は南北に約1.2mずつ突き出ており、古代の階段は角度が45度〜50度だったことから、基壇の高さは1.2〜1.5mと推定され、東西延長も24.7mと巨大なものだった(ちなみに、平城京大極殿の正門は東西約24m、南北約12mの規模である)。 階段跡の中央には天皇が通る通路として区切られたとみられる痕跡も見つかっている。

壇から推定される南門は東西35m、南北10mの細長い木造の門で、単なる出入り口の門ではなく、見栄え重視の儀式の場として設けられた可能性が指摘されている。

南門の柱推定位置に立つ柱列(西側) 南門の柱推定位置に立つ柱列(東側)
南門の柱推定位置に立つ柱列(西側) 南門の柱推定位置に立つ柱列(東側)

壇跡からは南門の柱跡は見つかっていない。しかし、推定される柱の位置関係などから、南門が二階建てと見るのは無理なようだ。建物の南北幅が狭すぎて不安定に思えるからである。そこで、東西8本南北3本の柱を持つ桁行7間(約35m)x梁行12間(約10m)という大規模な東西棟建物がこの基壇の上に構築されていたと考えられる。そのうちの桁行きの中央5間分には扉が設けられていて階段に続いていた可能性がある。

南門構築過程図
南門構築過程図(*)
目されたのは、基壇を築く前にその周囲を一回り広く、そして深く掘りこんで、地固めをしている点だ。地固めには版築工法が用いられていた。版築工法とは、棒で土を層状に突き固めて地盤を強化する技法で、オレンジ色の砂と黒の粘土を交互に入れて十数層にわたって積み重ねていた。砂と粘土を交互に入れることで、固さだけでなく地震に強う柔軟性も得られるという。

の表面に、先端が丸い直径6〜8cmの棒で突いた証跡が無数に残っていた。おそらく、工人たちが一列に並んで労働歌を口ずさみながら、一層ずつ地道な作業を繰り返したにちがいない。この版築工法は、古代の法隆寺や飛鳥寺などの寺院建築の基壇に採用されており、最近では明日香村の高松塚古墳の墳丘も版築で築かれていたことが判明している。

らに南門と大極殿の間では、東西15m、幅8mにおよぶこぶし大の石敷きも見つかった。


銅3年(710)3月の藤原京から平城京への遷都によって、南門は廃絶された。その後に比較的大きな柱穴を持つ建物群と小さな柱穴を持つ建物群が二時期にわたって営まれたことが、今回の発掘で明らかになった。大きな柱穴を持つ4棟の建物の建設時期は奈良時代まで遡る可能性があり、小さな柱穴を持つ4棟の建物は平安時代後半から鎌倉時代のものと推測されている。

土遺物の大半は南門あるいは南面回廊に葺いてあった瓦や藤原宮時代の土器である。瓦は現時点で41点(軒丸瓦23点、軒平瓦18点)が確認されているという。

出土した軒丸瓦−1 出土した軒丸瓦−2
出土した軒丸瓦−1 出土した軒丸瓦−2



大極殿院の南門と朝堂院の東西南の各門を列柱で再現

丹生川上神社 上社の拝殿
再現された大極殿院南門の列柱。奥の林は大極殿跡  (2007/09/08 撮影)


朝堂院南門の復元列柱
朝堂院南門の復元列柱(背後の山は耳成山)
朝堂院東門の復元列柱
朝堂院東門の復元列柱(背後の山は天香具山)
朝堂院西門の復元列柱
朝堂院西門の復元列柱(背後の山は畝傍山)
在、橿原市は「飛鳥・藤原の宮都とその関連施設群」を世界遺産に登録しようとさまざまな活動を行っている。登録に向けたPRとして、このたび藤原宮創建当時の宮門をイメージした列柱を藤原宮跡に再現した。

現したのは、大極殿院の南門(すなわち閤門(こうもん))と、朝堂院の東・西・南の各門。列柱はいずれも発掘調査で得られたデータに基づいて、門跡の近くに建てられた。

言っても、地下遺構を保護しなければならないので本物の柱を立てた訳ではない。土台の工事は行わず、下に鉄板を敷き、その上にウレタン材で作られた円形の礎石と朱塗りの柱が置かれた。

てられた列柱は合計60本。大極殿院の南門と朝堂院の南門は、直径70cmの柱をそれぞれ18本。朝堂院の東門と西門は直径40cmの柱を各12本、それぞれの推定地の近くに設置された。列柱の高さはいずれも180cmである。これらの列柱の制作に当てられた予算は約570万円とのことだ。

る9月7日、藤原京ルネッサンスのオープニング・セレモニーと同時に列柱の除幕式が行われた。再現された列柱は、11月25日まで展示しておくことになっている。



追記:藤原宮跡で銅銭や水晶入りの壺出土

南門構築過程図
出土した須恵器の平瓶
007年11月29日、奈文研は南門跡の5メートル西を発掘したところ、門につながる回廊の下から水や酒を注ぎ入れる壺「平瓶(ひらか)」(直径20センチ、高さ15センチ)が、埋められた状態で出土した、と発表した。注ぎ口には富本銭9枚が詰め込まれていたほか、長さ2〜4センチの六角柱状の水晶の原石が底に9個入っていた。

の壺は7世紀末の須恵器で、宮殿建設時の地鎮に使われたとみられる。壺を中心にして4つの柱穴(直径20〜25センチ)もあり、約1メートル四方を神聖な空間として区画した可能性もあるという。『日本書紀』には、持統6年(692)5月23日の条に、「藤原の宮地を鎮め祭らしむ」と記述されている。この平瓶は『日本書紀』の記述の記述を裏付けるとともに、古代の地鎮の実態やルーツを明らかにするための貴重な資料となるという。




2007/12/12作成 by pancho_de_ohsei return