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| 炎天下にも関わらず現地説明会に参集した多くの考古学・古代史ファン (2007/09/08 撮影) |
律令政治の幕開けを飾る壮麗な元日朝賀の儀
現地説明会の会場は橿原で借りているアパートに近いので、本日は愛用のチャリンコで駆けつけた。説明会の開始までには、まだ時間があった。発掘現場の様子や展示パネルの写真をデジカメで撮影した後、受付で説明会の資料を貰って、大極殿跡の林が作る木陰で一息入れた。その場所から南の方角に視線を投げると、50mほど先に発掘現場があり、さらにその先に、大極殿院の南門を復元イメージした朱塗りの列柱が並んでいた。
文武天皇の治世5年目(西暦701年)の新しい年が明けた。正月元旦の朝を告げる太陽が、東の空に昇った。太陽の光は、藤原宮の大極殿の屋根をまぶしく照らし出した。この朝、朝堂院の庭に整列した貴族や役人たちは、朝日を浴びて輝く重層の大極殿を、低い平屋の南門の屋根越しに眺めたにちがいない。 新しい年の日の出を待っていたように、宮廷雅楽隊が演奏する荘重な調べが藤原宮に響き渡った。それが合図だった。数え年で19歳を迎えたにすぎない若き天皇・文武は、祖母であり、また先の天皇だった持統皇太后とともに、大極殿に出御して高御座(たかみくら)に着席した。元日の朝に天皇が貴族や役人から年始の挨拶をうける元日朝賀の儀はこうして始まった。 式が最高潮に達したとき、文武天皇は高御座を下り、歩を南門まで進めて貴族や役人から年始の挨拶をうけたはずである。参列者が唱和する「天皇、万歳」の声は、おそらく藤原宮に響き渡ったことであろう。
朝堂院に整列した貴族や役人に混じって、この年は朝鮮半島を統一した新羅の外交使節も参列し百官とともに左右に並んだ。『続日本紀』は「大宝元年の正月、文武天皇が大極殿に出御して元日朝賀の儀が執り行われた」と伝え、さらに続けて、「文物の儀、ここに備われり」と記している。
だが、元日朝賀が執り行われた時点では、まだ「大宝」という元号は存在しない。対馬から金が献上されたのを寿ぎ、32年ぶりに元号を復活させ新しく「大宝」という元号を制定したのは、その年の3月21日のことである。 ついでに言えば、当時我が国で使用されていた暦は儀鳳暦(ぎほうれき)という。文武5年正月元旦は、ユリウス歴の701年2月13日にあたる。奈良盆地が一年の内で最も冷え込む時期で、早朝から元日朝儀に参列した貴族や百官は、さぞかし大変な思いをしたことであろう。 ところで、奈文研の発掘調査は、早川和子さんが元日朝賀の儀をイメージした上記のイラストに誤りがあることを指摘することとなった。藤原宮の大極殿院南門は重層の楼門ではなかった。どうやら、重層の楼門ではなく平屋の建造物だったことに、南門の重要性が秘められているようだ。 後で現地説明を担当した奈文研の高田貫太研究員は「朝堂院に並んだ百官たちの目には、荘厳な南門の向こうに天皇のいる大極殿が見えたのかもしれない」と話された。すなわち、朝堂院の庭に参列した人々は、皇族や役人、あるいは外国の使節を問わず、南門の屋根越しに天皇が臨席する大極殿を仰ぎ見ることになり、律令制度における天皇の威厳を視覚的に実感させられたであろう。南門は大極殿をより一層荘厳に見せるための仕掛けであり舞台として機能した。 |
版築工法で築かれた南門の基壇
午後1時半きっかりに、現地説明会が始まった。奈文研は今年の4月から実施してきたのは、飛鳥・藤原第148次発掘調査である。調査の目的は南門基壇の正確な規模や構成方法、南門自体の規模や構造、大極殿院回廊との関係などを明らかにすることに置かれた。 実は、戦前の1940年に日本古文化研究所が南門の部分的な調査を行っており、東西方向に列をなず石材を11個確認している。そして、これらの石材を基壇の北辺と考え、基壇の規模を長さ100尺程、幅50尺と推定していた。しかし、礎石などは確認しておらず、南門の具体的な構造も不明のままだった。
右図で青く塗りつぶした部分は基壇の跡を示す。この基壇の規模は日本古文化研究所の推定を遙かに上回り、東西約39。1m、南北14mだった。これまでに確認されている宮殿遺跡の大極殿院南門基壇としては、国内最大の規模である。
基壇から推定される南門は東西35m、南北10mの細長い木造の門で、単なる出入り口の門ではなく、見栄え重視の儀式の場として設けられた可能性が指摘されている。
基壇跡からは南門の柱跡は見つかっていない。しかし、推定される柱の位置関係などから、南門が二階建てと見るのは無理なようだ。建物の南北幅が狭すぎて不安定に思えるからである。そこで、東西8本南北3本の柱を持つ桁行7間(約35m)x梁行12間(約10m)という大規模な東西棟建物がこの基壇の上に構築されていたと考えられる。そのうちの桁行きの中央5間分には扉が設けられていて階段に続いていた可能性がある。
層の表面に、先端が丸い直径6〜8cmの棒で突いた証跡が無数に残っていた。おそらく、工人たちが一列に並んで労働歌を口ずさみながら、一層ずつ地道な作業を繰り返したにちがいない。この版築工法は、古代の法隆寺や飛鳥寺などの寺院建築の基壇に採用されており、最近では明日香村の高松塚古墳の墳丘も版築で築かれていたことが判明している。 さらに南門と大極殿の間では、東西15m、幅8mにおよぶこぶし大の石敷きも見つかった。 和銅3年(710)3月の藤原京から平城京への遷都によって、南門は廃絶された。その後に比較的大きな柱穴を持つ建物群と小さな柱穴を持つ建物群が二時期にわたって営まれたことが、今回の発掘で明らかになった。大きな柱穴を持つ4棟の建物の建設時期は奈良時代まで遡る可能性があり、小さな柱穴を持つ4棟の建物は平安時代後半から鎌倉時代のものと推測されている。 出土遺物の大半は南門あるいは南面回廊に葺いてあった瓦や藤原宮時代の土器である。瓦は現時点で41点(軒丸瓦23点、軒平瓦18点)が確認されているという。
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大極殿院の南門と朝堂院の東西南の各門を列柱で再現
再現したのは、大極殿院の南門(すなわち閤門(こうもん))と、朝堂院の東・西・南の各門。列柱はいずれも発掘調査で得られたデータに基づいて、門跡の近くに建てられた。 と言っても、地下遺構を保護しなければならないので本物の柱を立てた訳ではない。土台の工事は行わず、下に鉄板を敷き、その上にウレタン材で作られた円形の礎石と朱塗りの柱が置かれた。 立てられた列柱は合計60本。大極殿院の南門と朝堂院の南門は、直径70cmの柱をそれぞれ18本。朝堂院の東門と西門は直径40cmの柱を各12本、それぞれの推定地の近くに設置された。列柱の高さはいずれも180cmである。これらの列柱の制作に当てられた予算は約570万円とのことだ。 去る9月7日、藤原京ルネッサンスのオープニング・セレモニーと同時に列柱の除幕式が行われた。再現された列柱は、11月25日まで展示しておくことになっている。 |
追記:藤原宮跡で銅銭や水晶入りの壺出土
この壺は7世紀末の須恵器で、宮殿建設時の地鎮に使われたとみられる。壺を中心にして4つの柱穴(直径20〜25センチ)もあり、約1メートル四方を神聖な空間として区画した可能性もあるという。『日本書紀』には、持統6年(692)5月23日の条に、「藤原の宮地を鎮め祭らしむ」と記述されている。この平瓶は『日本書紀』の記述の記述を裏付けるとともに、古代の地鎮の実態やルーツを明らかにするための貴重な資料となるという。 |