橿原日記 平成19年8月28日

播磨の海に刻まれた万葉歌碑

万葉歌碑が建てられている家島神社
万葉歌碑が建てられている家島神社(2007/08/28 撮影)

神武の昔から船泊まりに利用された家島の入り江

家島諸島島
家島諸島
庫県の姫路港から18kmの沖合いの播磨灘に、大小40余りの島々からなる家島諸島(いえしましょとう)がある。その中の家島本島や、男鹿(たんが)島、坊勢(ぼうせ)島、西島は、姫路港からの連絡船を利用して渡ることができる。

在の姫路港がある飾磨(しかま)地域は万葉の昔から旅人が船泊まりに立ち寄った港だった。家島の入り江も、船泊まりに利用されたようだ。そのことが地名の由来から推し量ることができる。神武天皇の東征伝説では、嵐を避けてここの入り江に寄港した際に、天皇が波の静かさを家の中のようだと譬えたので、家島という名がついたという。

が国の古代、遣隋・遣唐使や遣新羅使など多くの外交使節が瀬戸内の海を航海した。沿岸航海が主流だった当時は、近くの島影や入り江に船を泊めて夜を過ごした。良風が得られなかったり嵐で海が荒れたようなときは、何日も入り江での停泊を余儀なくされたであろう。

家島神社の鳥居の脇に建つ万葉歌碑
家島神社の鳥居の脇に建つ万葉歌碑
島本島に宮という港があり、その東北方向に、原生林で覆われた天神鼻という岬がある。岬の先端に家島神社が鎮座していて、万葉学者犬飼孝博士の揮毫を得て建てられた万葉歌碑が、その境内に建っていると聞いた。天平8年(736)の夏6月に新羅に派遣された使節の一行は、翌年2月の帰朝の際、家島の入り江に船泊まりした。そのとき、使節の一人が、家島という名に誘発されて、わが家で夫の帰りを待つ妻を恋しく思って詠んだ歌の碑だという。

碑の話を聞いたとき、西暦607年に遣隋使節として隋に派遣された大使の小野妹子(おののいもこ)や通訳の鞍作福利(くらつくりのふくり)らも、帰路に家島に立ち寄ったならば同じ心境だったのでは・・・、と思った。すると、彼らが目にしたであろう景観を無性に追体験したくなった。気が付いたときには、朝の6時に電車に飛び乗り、姫路へ向かっていた。



悲運の連続だった天平8年の遣新羅使節たち

船上から見た姫路港
船上から見た姫路港
島本島の真浦港や宮港を姫路港と結ぶ連絡船は、高速いえしまと高福ライナーの2社が運行している。家島神社を訪れるには、宮港が近い。いずれの連絡船も真浦港経由になるので、姫路港−宮港の所要時間はほぼ35分。高速いえしまを利用する場合は、ポートサイドホテルの一階にある乗船券売り場の自動販売機で乗船券を買う。高福ライナの場合は、小型の高速艇なので乗船する際に船長に運賃を直接払う。いずれの会社も運賃は900円だった。

発時間の都合で、9時50分発の高福ライナーを利用することにした。高速艇は船体を揺らしながら定刻に姫路港の岸壁を離れた。後ろの甲板に出てみると、船体がかき分けた波しぶきが白い航跡となって続いていた。自動車でいうなら、時速40キロほどのスピードだろうか。それでも姫路港の施設がどんどん遠ざかっていった。

左舷に見えてきた家島諸島の島影
左舷に見えてきた家島諸島の島影
家島の東北端に突き出た天神鼻
家島の東北端に突き出た天神鼻
路港から家島本島までの距離は18キロ。姫路港からでも島影は確認できる。この狭い播磨灘の海域に多くの船が浮かんでいる。10時25分に船は宮港の高福ライナー専用の桟橋に着いた。船長に道順を聞くと、漁港の岸壁に沿って左に進めば、10分ほどで神社の鳥居とその前にある巨大な灯籠の前に着くと教えてくれた。

落の途中に海神社があった。その前を通りすぎると、弧を描いて伸びる海岸の前方に天神鼻の岬が見えてくる。瀬戸内の海は静かである。だが、海岸にはさまざまな浮遊物が打ち上げられている。心なき者たちが捨てたペットボトルや空き缶などで、海は結構汚れているようだ。

船上から見た家島神社の正面
船上から見た家島神社の正面

島神社の正面には2つの石灯籠がまるで灯台のように聳え、その背後にこれまた巨大な鳥居が建っている。目的の万葉歌碑は、鳥居の向かって右に置かれていた。昭和67年7月、万葉学者犬飼孝博士の揮毫を得て建てられたもので、万葉仮名で次の歌が刻まれている。

●家島は 名にこそありけれ 海原を 我が恋ひ来つる 妹もあらなくに −遣新羅使人−

葉集の巻15に収録された3718番の歌である。この歌の詞書きには「筑紫に廻(かへ)り来りて海路より京に入らんとし、播磨国の家島に到りし時に作る歌五首」とあり、その最初の歌がこの歌である。大意は”家島というのは名ばかりなのだなあ、渺茫とした海をずっと私が恋したって来た妹(=妻)もいないのだもの”(大意は岩波書店刊日本古典文学大系「万葉集四」による)

家島神社の鳥居の右に建てられた万葉歌碑
家島神社の鳥居の右に建てられた万葉歌碑

碑の下に置かれた石版には、この歌の作者(氏名不詳)が加わっていた天平8年(736)の遣新羅使節の概略が要領よくまとめてある。天平8年と言えば、新羅との外交関係が冷却していった時期である。直後の天平10年(738)と天平14年(742)には、来朝した新羅使節を追い返してる。そのきっかけとなったのは、この天平8年の遣新羅使に対する新羅側の冷遇だったとされている。

期も悪かった。北九州では天然痘が流行の兆しを見せており、一行が帰国した天平9年には、京にまで蔓延した天然痘で権力の中枢にいた藤原房前、麻呂、武智麻呂、宇合の4兄弟が次々と亡くなっている。世を挙げて疫病神に取り憑かれ、騒然とした時代だった。

倍継麿を大使、大伴三中を副使として派遣された遣新羅使は、終始悲運に見舞われた不幸な使節団だったようだ。まず、出発の予定がかなり遅れて難波津を発った。そのため、七夕を九州で迎え、秋も深まる頃ようやく対馬に寄港した。新羅の地では歓待されることなく冷遇され、失意のうちに帰路に着くことになった。さらに旅の途中で大使を失い、副使も病を得て帰朝が遅れるというアクシデントが続いた。おそらく北九州で天然痘にかかったのだろう。まことに実りのない旅であった。

運続きの長旅の間、この歌の作者は片時も忘れることのなく、大和の家やその家に残してきた妻に思いを致していたことであろう。家という名を持つ家島にようやくたどり着いたとき、島の名から半年の間留守にして来た大和の家のことがすぐに思い出された。その家には吾の帰りを待つ妻がいる。妻の姿を思い浮かべると、ますます恋しくなった。早く会いたいものだ。そうした心情がにじみ出ている歌である。

お、一行が天平8年の6月に西に向かって船出したとき、風早の浦(現在の東広島市安芸津町風早)で船泊まりした。その夜、風早の浦に深く霧がたちこめてくるのを見て、旅に出るとき妻から贈られた別れの嘆きを詠んだ歌を思いうかべて、夫が詠んだという歌が万葉集に2首残っている。

●わが故に 妹嘆くらし 風早の 浦の沖辺に 霧たなびけり (巻15-3615)
●沖つ風 いたく吹きせば 我妹子が 嘆きの霧に 飽かましものを(巻15-3616)



菅原道真ゆかりの古社とされている家島神社

人間の世界と神の世界を結ぶ結界の橋
人間の世界と神の世界を結ぶ結界の橋

内大社家島神社は、家島本島の入江の東にある天神鼻に位置し、「天神さん」と呼ばれて昔から島民に親しまれている。正面鳥居から一直線に延びる石の参道を進むと、途中に石の橋がある。人間の世界と神の世界を結ぶ結界の橋とされ、すぐ目の前には長く険しい石段が続いている。

の家島神社がある天神鼻の岬は、島で唯一の原生林に囲まれ、ウバメガシやトベラ、シイ、モチなどの温帯照葉樹が繁茂していて、家島十景のひとつ「天満霊樹」とされている。だが、山の斜面に築かれた石段は長く険しい。20段ほど上るごとに踊り場が設けてあり、数えてみたら7つも踊り場があった。

温帯照葉樹 長く急な石段の参道
繁茂する温帯照葉樹 長く急な石段の参道

段を上りきると正面に社務所があり、その左に神社の沿革を記した案内板が立っている。それによれば、この神社は大己貴命(おおなむじのみこと)、少名彦命(すくなひこなのみこと)、天満天神(てんまんてんじん)の3柱を祭神として祀っている。

の神社は起源を神武天皇の時代に求めている。神武天皇が東征の折にこの島に立ち寄り、天神(あまつかみ)を祭り、海上安全と戦勝を祈願した。それが、神社の始まりだという。さらに、神社が鎮座している山は、神功皇后が戦勝祈願をされた際、全山がにわかに鳴動したという。それでこのあたり一帯は”ゆるすの山”とも呼ばれているそうだ。

神社の沿革を記した案内神社の境内から浜を見下ろす
神社の沿革を記した案内板 神社の境内から浜を見下ろす

うした伝説の時代のことはさておき、家島神社は家島諸島の総鎮守として、また播磨灘を守護する神として古くから尊崇されてきたのは事実のようだ。『続日本後紀』には、国家鎮護の神として承和7年(840年)官社に列せられ、醍醐天皇の延喜の制では式内明神大社に列せられたと伝えられている。

泰4年(901)、菅原道真は左遷されて太宰府に向かう途中、島に立ち寄ったそうだ。彼が、休憩した跡に小さな社を建て、その後に社殿を新築した。そのため、道真も天満天神として合祀されている。

家島神社の拝殿
家島神社の拝殿

のように、菅原道真のゆかりの神社とされる家島神社は、1000年以上の歴史をもち、海の男たちの信仰を集めている。毎年7月25日に、海上の安全と五穀豊穰を祈願して奉納される神事は、壇尻船が出る勇壮な夏祭りの例祭で、島の人達はもちろん多くの観光客で賑わう。

島の半分を失った男鹿島
島の半分を失った男鹿島
社の社殿は、社務所から天神鼻の先端に向かって左へ進んだ先にある。神社の境内まで登れば、遣新羅使の一行や菅原道真も目にしたであろう播磨灘を一望できると期待していた。確かに社殿に向かう途中の参道脇からは、家島の波静かな浜が、木々の間から俯瞰できた。それはそれで美しい景観だった。

が、古代人たちが決して見ることができなかったものも見てしまった。採石によって、島の半分を失ってしまった男鹿(たんが)島の迫力ある景観である。現代を生きる我々には、千年あるいはそれ以上も前の古代人が目にしたであろう景色そのものを追体験することは、どうやら無理のようだ。



万葉集に詠われた飾磨川(しかまがわ)都太の細江(つだのほそえ)

2時22分に宮港の桟橋を出る高福ライナーの高速艇で、また姫路港に戻った。12時57分の到着だった。午前中の曇り空が午後から雨になるとの天気予報が出ていたが、珍しく予報があたった。だが、小雨程度に大した降りではない。姫路港まで戻ったら、もう一カ所訪ねてみたい場所があった。

磨灘に面する姫路港は、小豆島や家島諸島への連絡口であり、特定重要港湾に指定されている。1951年までは、姫路港は飾磨(しかま)港と呼ばれていた。往古、飾磨川と呼ばれてきた河口にできた港だったためだろう。

葉集の巻15には、「所に当たりて誦詠する古歌」の中の一首として、例の遣新羅使一行の一人が詠んだとされる次の歌が載っている。

●わたつみの 海に出でたる 飾磨川 絶えむ日にこそ 我が恋止まめ (巻15-3605)

ムクゲ
家島神社の境内に咲いていたムクゲ
の歌の意味は、”わたつみの海に流れ出る飾磨川の豊かな流れの絶える日でもくれば、私の恋が止むことがあるでしょうか”という単純なものだ。その飾磨川は、通説では播磨灘に流れ出る船場川だとされてきた。しかし、最近は、考古学的見地から、船場川ではなく野田川であるとする説も出されているとのことだ。

の写真は野田川にかかる飾磨臨海大橋の上から姫路港を撮影したものである。野田川が昔の飾磨川であれば、この付近は万葉集の巻7−1178の異伝に詠われた「飾磨江」ということになる。

飾磨臨海大橋の上から姫路港を望む
飾磨臨海大橋の上から野田川の河口を望む


付近のマップ
付近のマップ
は、訪れたい場所は、船場川にかかる思案橋の近くにある。乗船券売場の中のコンビニでレジ係の女性に思案橋の所在を聞くと、それほど遠い距離ではない。野田川にかかる飾磨臨海大橋の脇を通り、浜手緑地に沿って道なりに進むと、やがて船場川にかかる橋に出る。思案橋はその橋の上流にある。

案橋の近くに、次の万葉歌の歌碑があると聞いていた。
●風吹けば 波か立たむと さもらひに 都太(つだ)の細江に 浦隠りおり (巻6-945)

辛荷(からに)の島を過ぐる時に、山部宿禰赤人(やまべのすくね・あかひと)の作る歌」と題する長歌の三番目の反歌である。歌の大意は、”風が吹くので波が立つであろうかと、様子を見るために都太の細江にじっと隠れているよ”というもの。この歌の中の「都太の細江」は、今の船場川河口付近にあった深い入り江と考えられており、古くから港として利用されていたようだ。

船場川の上流を望む< 船場側にかかる思案橋
船場川の上流を望む 船場川にかかる思案橋
案橋とは乙な名前の橋である。語源についてはさまざまな説がある。一説には、菅原道真が左遷で太宰府に流されていくとき、途中でこの地に船を止め、橋の上に立って、この先陸路をとるか海路を行くかを思案したことが由来だという。別の説では、書写山円教寺を開いた性空上人が、京に行って教えを説くか、とどまって修行を続けるか悩んだ地ともされている。

は思案橋は2つある。一つは国道250号線にかかる橋であり、もう一つはその橋から少し川下にかかる朱塗りの橋である。1965年9月の台風で船場川の堤防が決壊した。5年後には川は付け替えられ、朱塗りの橋もコンクリート製に作り替えられた。その橋のたもとの住宅街の中に綱敷(つなしき)天神の御旅所があり、道真の銅像と「東風(こち)ふかば・・・」で知られる歌碑が建っている。

綱敷天神の御旅所
綱敷天神の御旅所

山部赤人の歌碑
山部赤人の歌碑
真が綱敷天神と呼ばれているのは、次のような故事による。道真が太宰府に左遷されていく途中、この地に立ち寄った時、座るものがなかった。そこで、艫綱(ともづな)を巻いて円座を作り休息したという。その故事に因んで、菅原道真を主神として社を建て、津田の氏宮としたのが津田天満神社である。神社は市営バス「思案橋」行の終点から西へ徒歩1分のところに鎮座している。

記の山部赤人の歌を刻んだ歌碑は、道真の銅像の脇に遠慮しながら建っていた。尾上紫舟(おのえさいしゅう)の揮毫による歌碑である。明治9年生まれの尾上紫舟は、自然主義短歌の先駆者であり、また、書家としても有名で「仮名書きの大家」と言われた。




2007/08/29作成 by pancho_de_ohsei