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| 万葉歌碑が建てられている家島神社(2007/08/28 撮影) |
悲運の連続だった天平8年の遣新羅使節たち
出発時間の都合で、9時50分発の高福ライナーを利用することにした。高速艇は船体を揺らしながら定刻に姫路港の岸壁を離れた。後ろの甲板に出てみると、船体がかき分けた波しぶきが白い航跡となって続いていた。自動車でいうなら、時速40キロほどのスピードだろうか。それでも姫路港の施設がどんどん遠ざかっていった。
集落の途中に海神社があった。その前を通りすぎると、弧を描いて伸びる海岸の前方に天神鼻の岬が見えてくる。瀬戸内の海は静かである。だが、海岸にはさまざまな浮遊物が打ち上げられている。心なき者たちが捨てたペットボトルや空き缶などで、海は結構汚れているようだ。
家島神社の正面には2つの石灯籠がまるで灯台のように聳え、その背後にこれまた巨大な鳥居が建っている。目的の万葉歌碑は、鳥居の向かって右に置かれていた。昭和67年7月、万葉学者犬飼孝博士の揮毫を得て建てられたもので、万葉仮名で次の歌が刻まれている。 ●家島は 名にこそありけれ 海原を 我が恋ひ来つる 妹もあらなくに −遣新羅使人− 万葉集の巻15に収録された3718番の歌である。この歌の詞書きには「筑紫に廻(かへ)り来りて海路より京に入らんとし、播磨国の家島に到りし時に作る歌五首」とあり、その最初の歌がこの歌である。大意は”家島というのは名ばかりなのだなあ、渺茫とした海をずっと私が恋したって来た妹(=妻)もいないのだもの”(大意は岩波書店刊日本古典文学大系「万葉集四」による)。
歌碑の下に置かれた石版には、この歌の作者(氏名不詳)が加わっていた天平8年(736)の遣新羅使節の概略が要領よくまとめてある。天平8年と言えば、新羅との外交関係が冷却していった時期である。直後の天平10年(738)と天平14年(742)には、来朝した新羅使節を追い返してる。そのきっかけとなったのは、この天平8年の遣新羅使に対する新羅側の冷遇だったとされている。 時期も悪かった。北九州では天然痘が流行の兆しを見せており、一行が帰国した天平9年には、京にまで蔓延した天然痘で権力の中枢にいた藤原房前、麻呂、武智麻呂、宇合の4兄弟が次々と亡くなっている。世を挙げて疫病神に取り憑かれ、騒然とした時代だった。 阿倍継麿を大使、大伴三中を副使として派遣された遣新羅使は、終始悲運に見舞われた不幸な使節団だったようだ。まず、出発の予定がかなり遅れて難波津を発った。そのため、七夕を九州で迎え、秋も深まる頃ようやく対馬に寄港した。新羅の地では歓待されることなく冷遇され、失意のうちに帰路に着くことになった。さらに旅の途中で大使を失い、副使も病を得て帰朝が遅れるというアクシデントが続いた。おそらく北九州で天然痘にかかったのだろう。まことに実りのない旅であった。 非運続きの長旅の間、この歌の作者は片時も忘れることのなく、大和の家やその家に残してきた妻に思いを致していたことであろう。家という名を持つ家島にようやくたどり着いたとき、島の名から半年の間留守にして来た大和の家のことがすぐに思い出された。その家には吾の帰りを待つ妻がいる。妻の姿を思い浮かべると、ますます恋しくなった。早く会いたいものだ。そうした心情がにじみ出ている歌である。 なお、一行が天平8年の6月に西に向かって船出したとき、風早の浦(現在の東広島市安芸津町風早)で船泊まりした。その夜、風早の浦に深く霧がたちこめてくるのを見て、旅に出るとき妻から贈られた別れの嘆きを詠んだ歌を思いうかべて、夫が詠んだという歌が万葉集に2首残っている。
●わが故に 妹嘆くらし 風早の 浦の沖辺に 霧たなびけり (巻15-3615)
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菅原道真ゆかりの古社とされている家島神社
式内大社家島神社は、家島本島の入江の東にある天神鼻に位置し、「天神さん」と呼ばれて昔から島民に親しまれている。正面鳥居から一直線に延びる石の参道を進むと、途中に石の橋がある。人間の世界と神の世界を結ぶ結界の橋とされ、すぐ目の前には長く険しい石段が続いている。 この家島神社がある天神鼻の岬は、島で唯一の原生林に囲まれ、ウバメガシやトベラ、シイ、モチなどの温帯照葉樹が繁茂していて、家島十景のひとつ「天満霊樹」とされている。だが、山の斜面に築かれた石段は長く険しい。20段ほど上るごとに踊り場が設けてあり、数えてみたら7つも踊り場があった。
階段を上りきると正面に社務所があり、その左に神社の沿革を記した案内板が立っている。それによれば、この神社は大己貴命(おおなむじのみこと)、少名彦命(すくなひこなのみこと)、天満天神(てんまんてんじん)の3柱を祭神として祀っている。 この神社は起源を神武天皇の時代に求めている。神武天皇が東征の折にこの島に立ち寄り、天神(あまつかみ)を祭り、海上安全と戦勝を祈願した。それが、神社の始まりだという。さらに、神社が鎮座している山は、神功皇后が戦勝祈願をされた際、全山がにわかに鳴動したという。それでこのあたり一帯は”ゆるすの山”とも呼ばれているそうだ。
そうした伝説の時代のことはさておき、家島神社は家島諸島の総鎮守として、また播磨灘を守護する神として古くから尊崇されてきたのは事実のようだ。『続日本後紀』には、国家鎮護の神として承和7年(840年)官社に列せられ、醍醐天皇の延喜の制では式内明神大社に列せられたと伝えられている。 昌泰4年(901)、菅原道真は左遷されて太宰府に向かう途中、島に立ち寄ったそうだ。彼が、休憩した跡に小さな社を建て、その後に社殿を新築した。そのため、道真も天満天神として合祀されている。
このように、菅原道真のゆかりの神社とされる家島神社は、1000年以上の歴史をもち、海の男たちの信仰を集めている。毎年7月25日に、海上の安全と五穀豊穰を祈願して奉納される神事は、壇尻船が出る勇壮な夏祭りの例祭で、島の人達はもちろん多くの観光客で賑わう。
だが、古代人たちが決して見ることができなかったものも見てしまった。採石によって、島の半分を失ってしまった男鹿(たんが)島の迫力ある景観である。現代を生きる我々には、千年あるいはそれ以上も前の古代人が目にしたであろう景色そのものを追体験することは、どうやら無理のようだ。 |
万葉集に詠われた飾磨川と都太の細江
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| 家島神社の境内に咲いていたムクゲ |
次の写真は野田川にかかる飾磨臨海大橋の上から姫路港を撮影したものである。野田川が昔の飾磨川であれば、この付近は万葉集の巻7−1178の異伝に詠われた「飾磨江」ということになる。
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| 飾磨臨海大橋の上から野田川の河口を望む |
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| 付近のマップ |
思案橋の近くに、次の万葉歌の歌碑があると聞いていた。
●風吹けば 波か立たむと さもらひに 都太(つだ)の細江に 浦隠りおり (巻6-945)
「辛荷(からに)の島を過ぐる時に、山部宿禰赤人(やまべのすくね・あかひと)の作る歌」と題する長歌の三番目の反歌である。歌の大意は、”風が吹くので波が立つであろうかと、様子を見るために都太の細江にじっと隠れているよ”というもの。この歌の中の「都太の細江」は、今の船場川河口付近にあった深い入り江と考えられており、古くから港として利用されていたようだ。
| 船場川の上流を望む | 船場川にかかる思案橋 |
実は思案橋は2つある。一つは国道250号線にかかる橋であり、もう一つはその橋から少し川下にかかる朱塗りの橋である。1965年9月の台風で船場川の堤防が決壊した。5年後には川は付け替えられ、朱塗りの橋もコンクリート製に作り替えられた。その橋のたもとの住宅街の中に綱敷(つなしき)天神の御旅所があり、道真の銅像と「東風(こち)ふかば・・・」で知られる歌碑が建っている。
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| 綱敷天神の御旅所 |
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| 山部赤人の歌碑 |
上記の山部赤人の歌を刻んだ歌碑は、道真の銅像の脇に遠慮しながら建っていた。尾上紫舟(おのえさいしゅう)の揮毫による歌碑である。明治9年生まれの尾上紫舟は、自然主義短歌の先駆者であり、また、書家としても有名で「仮名書きの大家」と言われた。