2007/08/23
里帰りした牧野古墳出土の遺物たち

発掘調査時の牧野古墳
発掘調査時の牧野古墳(*)

押坂彦人皇子(おしさかのひこひとのみこ)を埋葬したとされる牧野古墳(ばくやこふん)

■ 日本の歴史を学んだ者ならば、古代律令国家の礎を築いた第38代・天智天皇や第40代・天武天皇の名を誰でも知っている。天智天皇は大化の改新の先駆けとなった乙巳の変巳(いっしのへん)の中心人物として、また天武天皇は古代最大の内乱とされる壬申の乱(じんしんのらん)の一方の旗頭として、その知名度は高い。だが、この天智・天武両帝の父に当たる第34代・舒明(じょめい)天皇となると、知名度は息子達に比べて低い。

■ さらに天智・天武の祖父は?、と聞かれて、即答できる人は意外と少ない。第30代・敏達(びたつ)天皇とその皇后・広姫(ひろひめ)との間に生まれた嫡子・押坂彦人大兄皇子(おしさかのひこひとのおおえのみこ)こそ、天智・天武両帝の祖父にあたる人物である。
>現在の牧野古墳
現在の牧野古墳

■ 大兄皇子(おおえのみこ)とは後世の皇太子のことだ。したがって、世が世ならば、父の後を継いで第31代目の天皇として即位したかもしれない皇子である。だが、生まれた時代が悪かった。皇位継承と権力争いをめぐる権謀術数の渦に巻き込まれて、いつのまにか史書の上からその名が消え、1400年という長い歳月が流れた。

■ この皇子の名が再び話題に上るようなったのは、つい最近のことである。馬見丘陵のほぼ中央に位置する小さな尾根の先端を利用して築かれた古墳がある。昭和39年(1964)6月に国の史跡に指定された牧野古墳(ばくやこふん)である。石室が開口したままで、石室内は土砂が堆積したまま放置しれていたが、史跡公園として保存することになり、昭和58年(1983)11月から翌年(1984)の2月にかけて、県立橿原考古学研究所(橿考研)が発掘調査を実施した。

■ その結果、直径が38mから60m、高さ約13mの三段築成に作られた円墳であることが判明し、『延喜式』に示す押坂彦人皇子の成相墓(ならいのはか)である可能性が俄然高くなった。天皇になれなかったこの皇子の境遇に興味を抱いて、4年前に牧野古墳を訪れ、彼の生涯をあれこれ想像したことがある(牧野古墳参照)。

特別展のパンフ
特別展のパンフ
■ 今年は、牧野古墳発掘調査から25周年の節目の年にあたり、その記念事業として奈良県の広陵町は「牧野古墳出土遺物の里帰り」と称する特別展を開催している。牧野古墳は、築造時期や被葬者が特定できる古墳として、考古学上貴重な存在だ。

■ 通説どおり押坂彦人皇子を埋葬した墓なならば、出土遺物は皇子が生前に愛用して身の回りの品や埋葬時の儀式に用いられた品々である。言ってみれば、1400年の時間をタイムスリップして皇子に会えるようなものだ。この特別展を見逃すわけにはいかない。

■ 特別展は6月25日から2ヶ月にわたって開催されてきた。それが明日の8月24日に閉じるという。しばらく自宅に戻っていたため、訪れる時間がなかったが、本日思い切って出かけてきた

発掘調査の様子を再現した写真パネル

広陵町役場の庁舎 広陵町文化財保存センター
広陵町役場の庁舎 広陵町文化財保存センター
■ 出かけた場所は広陵町文化財保存センター。特別史跡・巣山古墳の出島から様々な埴輪が出土したのを機に、広陵町役場の敷地内に昨年4月に開設された施設である。広陵町は奈良盆地の中西部に位置する人口3万4千の小都市で、町役場は高田川右岸の田園の中にある。車がなければ、アクセスにはいささか不便な場所である。

牧野古墳の外形と外部施設
牧野古墳の外形と外部施設(*)
■ 近鉄大阪線の「大和高田」駅前から「竹取公園東」行きの奈良交通バスに揺られることおよそ10分、「疋相(ひきそ)南口」で下車して、県道112号線を東に向かって約15分ほど歩いて、やっと広陵町役場に着く。文化財保存センターは広陵町役場の正門を入った右手に建っていた。

■ 文化財保存センターの展示室は、巣山古墳出土の埴輪の展示を目的とした部屋だが、今回の特別 展示のため、牧野古墳出土品がガラスケースに入れられて部屋の四方に置かれていた。橿考研の附属博物館に常設展示されていた一部を除いて、ほとんどの品は橿考研の保存倉庫から里帰りしてきたものである。

■ 出土品も興味深かったが、それ以上に関心を引いたのは、ガラスケースの中に遺物を一緒に展示されている写真パネルだった。写真パネルを順に追うことで、発掘調査時の様子がよく理解できた。それに加えて、作業ボランティアで発掘調査に参加された広陵古文化会の坂野平一郎氏に、発掘時の様子を丁寧に説明していただいた。坂野氏は現在、この文化財保存センターの副所長を務めておられる。

発掘調査前の牧野古墳 石室実測図
発掘調査前の牧野古墳(*) 石室実測図(*)

■ 坂野氏は少年時代、牧野古墳の石室に入り込んで中でたき火をされたそうだ。すると、煙にいぶし出されてコウモリが狭い入口に向かって飛び出してくる。それを待ち受けて箒でたたき落として捕まえ、小学校へ持って行って友達に自慢したと、昔を思い出しながら楽しげに話された。

■ 牧野古墳は丘陵の南斜面に築かれた円墳で、南面に横穴式石室が口を開けていた。巨大な花崗岩で構築された石室の規模は、全長で17.1mもある。蒼ケは長さ10m、高さ2.0m、幅1.8m、玄室は長さ7.0m、幅3.3m、高さ4.5mを測る。

■ 発掘当初の石室は、長年にわたって入口から蒼ケに流れ込んだ土砂で埋まり、ほとんど狭い空間だったそうだ。土層観察用のアゼを残して石室内に堆積した土砂を掘り下げるのに苦労されたそうだ。土が非常に硬く締まっていて、少しずつしか掘れなかった。

発掘調査作業の様子 蒼ケ部分の出土状況
発掘調査作業の様子(*) 蒼ケ部分の出土状況(*)

■ 蒼ケ部分に置かれた須恵器などの器は、流入した土砂の下になったことが幸いして、完形に近い形で原位置から出土したものがかなりあったようだ。この古墳も盗掘の被害にあっていて、金目と思われるものは完全に盗み出されていた。坂野氏の話だと、盗掘者が作業のための灯りに使ったと思われるカワラケが発掘の途中で見つかった。平安時代末期のもので、それまでのおよそ400年間は、被葬者は闇の中で静かな眠りについていたことになるという。

蒼ケ部分の出土状況 蒼ケ部分の出土状況
蒼ケ部分の出土状況(蒼ケ→玄室方向)(*) 蒼ケ部分の出土状況(玄室→蒼ケ方向)(*)

■ 玄室には奥に刳抜(くりぬき)式家型石棺が、石室の主軸に直交して横向きに置かれていた。しかし、石棺の身の部分は割られ側面は石材として持ち去られていた。さらに蓋の部分も全体の1/3ほどと縄掛突起が破壊されていた。この家型石棺の手前には、石室の主軸に平行して組合(くみあわせ)式の石棺が置かれていた。おそらく副葬品を埋納した石棺だと推定されているが、完全に破壊されていた。

刳抜しき家型石棺出土状況 石室の内部構造復元図
刳抜しき家型石棺出土状況(*) 石室の内部構造復元図

■ 玄室の奥壁と刳抜式家型石棺の間の狭い空間には、杏葉や鏡板、辻金具、障泥金具などの馬具類や鉄鏃が散乱していたという。おそらく盗掘者が組合式石棺に納められていたこれらの品々がすでに錆び付いて価値のないものと判断し、玄室の奥にまとめて捨てていったのだろう。

馬具・鉄鏃類 馬装の復元図
玄室奥壁と石棺の間に
散乱していた馬具・鉄鏃類(*)
馬装の復元図(*)

■ 発掘調査によって、石室の壁面は持ち送りで構築され、石材の隙間には粘土が詰められ、床面は前面に礫が敷かれていたことが判明した。さらに礫の下には排水溝が玄室の壁面付近に巡らされ、蒼ケを通って墳丘の外に排水する構造になっていた。

三脚を組んで石棺の蓋を元の位置に戻す 調査終了後の玄室と石棺
三脚を組んで石棺の蓋を
元の位置に戻す(*)
調査終了後の玄室と石棺(*)

現地説明会
現地説明会(*)
■ 玄室の側壁上部や天井石は、長年のたき火で煤けて真っ黒になっていた。調査の最後に、そのススを洗い落とし、さらに石棺の身から外れている蓋を三脚を組んで元の位置に載せた。

■ 発掘調査が一段落した昭和59年1月22日には現地説明会が開催され、多くの考古学ファンば参集した。調査はその年の2月8日に終了した。


里帰りした遺物たち

■ 牧野古墳は、『延喜式』の記載から押坂彦人皇子(おしさかのひこひとのみこ)の成相墓(ならいのはか)とする説が有力であり、6世紀末頃に築造されたと考えられている。同じ頃築造された古墳としては、592年に東漢直駒(やまとのあやのあたいこま)に暗殺された崇峻天皇の陵墓の可能性が高い桜井市の天王山古墳や、587年に蘇我馬子が炊屋姫を奉じて誅殺した穴穂部皇子(あなほべのみこ)と宅部皇子(やかべのみこ)を埋葬したとする説がある藤ノ木古墳がある。

■ 藤ノ木古墳は豪華な副葬品が出土したことで知られるが、押坂彦人皇子も穴穂部皇子も第31代・用明天皇亡き後、次期天皇候補とされた人物である。牧野古墳には副葬品を納めたと思われる組合式石棺があった。したがって、藤ノ木古墳並みの副葬品が埋納されていてもおかしくない。残念ながら平安時代末期には盗掘の被害にあい、めぼしい品々はすでに持ち出されていた。

■ それでも、昭和58年(1983)11月から翌年(1984)の2月にかけて実施された発掘調査で、数多くの副葬品が出土した。これらの副葬品は橿考研で保管されていたが、今回発掘調査25周年を記念して広陵町に里帰りし、文化財保存センターで特別展示されている。

鞍金具 花弁形飾り金具
鞍金具(*) 花弁形飾り金具(*)

■ 展示された遺品を見ると、馬具類、須恵器類、その他の3種類にほぼ分類できるようだ。馬具類は、玄室の奥壁と刳抜式石棺の間から杏葉、鏡板、辻金具、飾り金具、引き手金具、障泥縁金具などが見つかった。右側壁と組合石棺の間からも辻金具、飾り金具などが出土し、蒼ケでは盗掘で移動したと思われる雲珠、杏葉、障泥縁金具、磯金具、壺鐙が見つかっている。

雲珠と杏葉 革帯飾り金具
雲珠と杏葉(*) 革帯飾り金具(*)

■ これらの馬具類は2頭の馬を飾っていたもので、被葬者が可愛がっていた愛馬のものだろう。押坂彦人皇子の生前の居館は水派宮(みまたのみや)と呼ばれ、大和国広瀬郡城戸(きのへ)郷にあった。これらの馬具類を見ていると、居館の背後に広がる馬見丘陵の広大な原野を、愛馬に乗って疾走する皇子の姿が彷彿として浮かんでくる。

壺鐙 障泥縁金具・吊り金具
壺鐙(つぼあぶみ)(*) 障泥縁金具・吊り金具(*)

■ 玄室の右側壁と組合式石棺の間からは、さらに須恵器の甕片や杯蓋などが見つかっている。蒼ケでは原位置を保つ須恵器が多数見つかった。

須恵器群ー1 須恵器群ー2
須恵器群ー1(*) 須恵器群ー2(*)

■ 玄門付近からは、組合式石棺から持ち出されたと考えられる大量の朱、多数のガラス粟玉、折れ曲がった鉄刀、金環などが出土している。金銅製の山梔(くちなし)玉は玄室の右側壁と組合式石棺の間から見つかった。山梔玉は銀線を通して隙間なく連ね、輪を作って首に掛けていたと思われる。

須恵器の甕片、杯蓋 金環、金銅製山梔(くちなし)玉
須恵器の甕片、杯蓋(*) 金環、金銅製山梔玉(*)

■ 玄室の奥壁近くからは、多数のガラス小玉が出土した。美しい青色のガラス小玉は連ねて首飾りにしていたものと思われる。

ガラス小玉−1 ガラス小玉−2
ガラス小玉−1(*) ガラス小玉−2(*)

■ 組合式石棺の手前の床面から、ガラス粟玉(あわたま)が13,000個以上も出土した。繋がった状態で取り上げることができた部分は、亀甲継文の状態を呈していた。そこで、約40cm四方の布にガラス粟玉を配列して縫いつけて復元してみた。このような布が玉枕に使用されていたと推定されている。

ガラス粟玉 ガラス粟玉の配列復元模型
ガラス粟玉(*) ガラス粟玉の配列復元模型(*)


【注】 (*)を付した写真は、広陵町文化財保存センターの許可をいただいてデジカメで撮影したものである。



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2007/08/24作成 by pancho_de_ohsei