往時の繁栄が偲ばれる広大な境内を演出する幽玄の世界
白山は、最高峰の御前峰(標高2,702m)・剣ヶ峰(2,677m)・大汝峰(2,684m)の「白山三峰」を中心とする周辺の山峰の総称である。養老元年(717)に泰澄(682 - 767)によって開山されたと伝えられ、古くから富士山、立山と並ぶ霊峰として信仰されてきた。
泰澄は養老6年(722)、元正天皇の病気平癒を祈願し、その功により神融禅師の号を賜った。天平9年(737)には、流行した疱瘡を収束させた功により大和尚位を賜ったと伝えられる。 参道から左に入った奥に、開祖泰澄大師廟があり、古ぼけた五輪塔が立っている。参道をさらに登ると、左手の鬱蒼とした木立の中に御手洗池が静まりかえっている。
現在の拝殿は、江戸時代の安政6年(1859)に建てられた寄せ棟造りである。拝殿の入口に、「中宮平泉寺」と書かれた一品天真親王の筆による額が掲げられている。中に数多くの絵馬が奉納されているとのことだが、残念なことに施錠されていて、拝殿の中を見学することはできない。天正2年(1574)の一向一揆の際に焼失した旧拝殿は、正面45間という我が国最大の拝殿だったそうだ。京都の三十三間堂よりも横長の拝殿だったことになる。現在も拝殿の左右には礎石の一部が苔の中から姿を見せている。 拝殿の奥の石段の上に建つ本殿は、屋根の葺き替え工事中だった。祭神として伊邪那美(いざなみ)尊を祀っている。
白山神社には、最盛時の境内の様子を描いた「中宮白山平泉寺境内図」が伝わっている。それを見ると、南谷に3600坊、北谷に2400坊が立錐の余地もないほどに細かく描かれている。 それぞれの坊に一人の僧が住んだとして、6000人の僧が生活できたことになる。そのすべてが修行僧というわけではなく、大半は僧兵だったと思われる。その場合、この白山の麓に立地する山岳寺院は、同時に多くの僧兵をかかえる山城の様相を呈していたにちがいない。 ところで、気になるのは6000人の僧の生活を支えた経済力である。9万石の寺領を有していたのであれば、荘園から収穫する米を、高い利子を付けて貸しつけていたという説がある。そうした貸し付けを繰り返す金融活動によって、富を蓄えることができたという。 |
鬱蒼とした杉の大木と分厚い苔(こけ)で覆われた境内
平泉寺白山神社が参拝客を引きつける最大の魅力は、境内を絨毯のように覆う緑の苔であろう。鬱蒼とした枝を張る杉の大木の根元が分厚い苔で覆われている。作家の故司馬遼太郎氏は『街道をゆく 越前の諸道』の中で、その様子を”冬ぶとんを敷き詰めたようだ”と表現している。
当地を訪れることを勧めてくれた知人は、よほどこの神社の苔の美しさに魅せられたにちがいない。京都の西芳寺よりもすばらしく、梅雨の季節に一段と美しさを増す境内の苔は圧巻だと語ってくれた。梅雨が明けて極暑の日々が続いている今日このごろでも、巨大な杉が立ち並ぶ境内に足を踏み入れると、幽玄の世界を感じさせてくれる。 |
平成元年度から始まった発掘調査
見学のシオリには、15世紀中頃から16世紀はじめにかけての平泉寺の境内を復元した図が描かれている。それを見ると、中央の丘陵の尾根に神社・仏閣の建物が甍を並べ、丘陵の北と南の谷に坊院がひしめくように描かれている。 比叡山をもしのぐ多くの坊院を擁した平泉寺だが、天正2年(1574)の一向一揆との戦いに敗れ、全山が焼失してしまった。平家一門や織田信長、豊臣秀吉といった権力者が時に応じて宗教を弾圧する例は多い。だが同じ仏教門徒同士が異なる宗派の寺院を襲撃するといった事例はあまり聞かない。なにはともあれ、平泉寺が全焼する光景は灼熱の地獄絵そのものだったにちがいない。 秀吉の時代や江戸時代になって、平泉寺の6つの坊と2つの寺が再興された。復興した平泉寺は福井藩や勝山藩から寄進を受けて、400石を領していた。しかし、室町時代の最も栄えた頃までは力を盛り返すことができなかった。6千坊と称された坊院はほとんど再興されることはなく、いつしか山林や田畑のしたに埋もれてしまった。明治になると神仏分離令が出され、平泉寺が廃され白山神社となった。
平成元年度から5カ年計画で行われた範囲確認調査では、現在の白山神社の境内から数百メートル離れた場所から平泉寺関連の建物跡や遺物が見つかった。そのため、かっての境内は東西1.2km、」南北1kmの広範囲にわたっていたことが明らかにになり、平成9年にかっての境内のほぼ全域に匹敵する約200ヘクタールが国の史跡に指定された。
南谷一帯は、今は山林や田畑に姿を変えているが、その下には中世の都市がそのまま埋まっている。発掘調査は現在も行われていて、参道脇から南谷方面に下る道筋に発掘現場の標識が立っていた。青いシートで覆われた発掘現場に立つと、不思議な感動に襲われた。かってこの地で修行した6千人の僧侶たちの生活空間が自分の足元に眠っている。彼ら一人一人の情念のようなものが大地からわき上がってくるような錯覚すら感じた。 往時の越前福井は、宗教王国だった。道元禅師が貴族・権勢に近づくことを避けて越前に移り、現在の永平寺町に曹洞宗の総本山を開いたのは寛元4年(1246)である。朝倉氏に奪われた越前吉崎を取り戻すため石山本願寺派の一向衆が大規模な一揆が起こしたのは天正2年(1574)である。そのときの一向一揆の焼き討ちで、天台宗の末寺だった平泉寺は焼亡した。 今、地上には平泉寺の繁栄を示すものは何も残っていない。周りに見えるのは、杉の巨木とその根元に広がる苔の絨毯である。聞こえてくるのは、重くなった稲穂を揺らしながら稲田を渡る夏の風であり、近くの林から降り注ぐセミの声ばかりだ。 |