橿原日記 平成19年8月16日

風化して越前に眠る平泉寺六千坊院の跡

白山信仰の拠点寺院として巨大な宗教勢力を誇った平泉寺(へいせんじ)

平泉寺白山神社の参道
平泉寺白山神社の参道
今年のお盆休みは墓参りに帰省したら、是非訪れて見なさい」と、知人に勧められた旧蹟があった。「何処だ?」と聞くと、寺院なのか神社なのか判然としない平泉寺白山神社という名前が返ってきた。白山を開いた泰澄(たいちょう)が、養老元年(717)に創建した古代寺院の旧蹟で、福井県の勝山市平泉寺町にある国指定史跡である。

山の登拝口に建てられた平泉寺は、古代から中世後期にかけて白山信仰の拠点寺院として大きな宗教勢力を誇った。最盛期には48社、36堂、6千の坊院が寺内に存在したと伝えられている。坊院とは僧侶の住居のことある。坊院の数で比較しても比叡山3千坊をはるかにしのぐ大寺院だった。最盛時の平泉寺の寺領は9万石に達したという。戦国の雄・越前朝倉氏と勢力を二分する巨大寺院組織だった。

の大寺院が、天正2年(1574)の一向一揆との戦いに敗れ、全山が焼失してしまった。秀吉の時代や江戸時代に、主な堂宇が再興された。復興した平泉寺には6つの坊と2つの寺があり、福井藩や勝山藩から寄進を受けて400石を領していた。しかし、室町時代の最も栄えた頃までは力を盛り返すことができなかった。6千坊と称された坊院はほとんど再興されることはなく、いつしか山林や田畑の下に埋もれてしまった。明治になると神仏分離令が出され、平泉寺が廃され白山神社となった。

在は、伊弉冉尊(いざなみのみこと)を主祭神として祀る神社で、平泉寺白山神社を正式名称としている。神仏習合の名残を留めている珍しい社名である。境内一面に生い茂った苔(こけ)が見事で、一見の価値ありというのが、知人の推薦の弁だった。

平泉寺白山神社付近の地図
平泉寺白山神社付近の地図

山市は、越前平野を流れる九頭竜川の上流に位置する人口2万8千の小都市で、市内には県立恐竜博物館や越前大仏などがある。日本でもっとも綺麗な都市の第1位に選ばれ、世界でもトップ25のうち第9位にランクされているとのことだ。だが、白山神社は市のはずれにあって、アクセスするにはいささか不便である。車を利用するなら、北陸自動車道の「福井北」ICまたは「丸岡」ICから50分はかかる。えちぜん鉄道勝山永平寺線を利用する場合は、福井駅から終着の「勝山」駅まで行き、京福バスの「平泉寺神社前」行きに乗り継いで12分ほどかかる。

東尋坊
越前加賀海岸国定公園の名勝・東尋坊
井県の三国町に東尋坊(とうじんぼう)という断崖絶壁の景勝地がある。知人の話では、その名前の由来が平泉寺白山神社に関係があるという。その昔、平泉寺白山神社が平泉寺と呼ばれていた頃、平泉寺の衆徒の中にひときわ悪名高い「東尋坊」という僧がいた。

尋坊は力持ちで乱暴者だったので、衆徒たちは手を焼いて寺侍の真柄覚念(まがらかくねん)に東尋坊を山から追放するよう依頼した。すると、覚念は東尋坊を三国見物に誘い、景色の良いところで酒盛りをした。そして東尋坊が酔いつぶれたのを見計らって、彼を海中に突き落としてしまった。そこで、この景勝地は暴れん坊の僧の名を取って現在でも東尋坊と呼ばれている。あるいは、東尋坊の絶壁から見下ろす北陸の冬の海の荒々しさを重ね合わせたネーミングかもしれない。

井県に生まれ育った身でありながら、この年になるまでまだ白山神社を訪れたことがない。知人の勧めもあったことであり、本日レンタカーを借りて白山神社に参拝してきた。



往時の繁栄が偲ばれる広大な境内を演出する幽玄の世界

白山三峰
雪を抱く白山三峰

山は、最高峰の御前峰(標高2,702m)・剣ヶ峰(2,677m)・大汝峰(2,684m)の「白山三峰」を中心とする周辺の山峰の総称である。養老元年(717)に泰澄(682 - 767)によって開山されたと伝えられ、古くから富士山、立山と並ぶ霊峰として信仰されてきた。

開祖泰澄大師廟
開祖泰澄大師廟
御手洗池
御手洗池
澄は越前国麻生津(現在の福井市浅水町付近)の出身で修験道の僧だった。35歳の時に霊感を得て、悲願であった白山登頂を決心し、今の御手洗池(みたらいいけ)までやってきた。池のほとりで、念仏を続けていると、あたり一面光り輝き池の中から女神が現れた。この女神に導かれて泰澄は白山に登り、妙理大菩薩を感得したという。さらに、白山の神々のお告げで、池の近くに社を建て白山の神を祀ったと伝えられる。それが平泉寺の始まりとされている。

澄は養老6年(722)、元正天皇の病気平癒を祈願し、その功により神融禅師の号を賜った。天平9年(737)には、流行した疱瘡を収束させた功により大和尚位を賜ったと伝えられる。

道から左に入った奥に、開祖泰澄大師廟があり、古ぼけた五輪塔が立っている。参道をさらに登ると、左手の鬱蒼とした木立の中に御手洗池が静まりかえっている。


石畳の参道
石畳の参道
側の杉の木立の間を、緩やかな傾斜を伴って一直線に延びる石畳の参道が美しい。昔、修行僧が九頭竜川の河原から手で石を運んで築いたとされる参道で、「日本の道百選」にも選ばれている。往時には堂宇が建ち並んでいた参道脇は、今は緑の苔が張りつめた幽玄の世界である。その幽玄の世界の奥に、古びた拝殿が建っている。

在の拝殿は、江戸時代の安政6年(1859)に建てられた寄せ棟造りである。拝殿の入口に、「中宮平泉寺」と書かれた一品天真親王の筆による額が掲げられている。中に数多くの絵馬が奉納されているとのことだが、残念なことに施錠されていて、拝殿の中を見学することはできない。天正2年(1574)の一向一揆の際に焼失した旧拝殿は、正面45間という我が国最大の拝殿だったそうだ。京都の三十三間堂よりも横長の拝殿だったことになる。現在も拝殿の左右には礎石の一部が苔の中から姿を見せている。

殿の奥の石段の上に建つ本殿は、屋根の葺き替え工事中だった。祭神として伊邪那美(いざなみ)尊を祀っている。

古色蒼然とした拝殿 屋根の葺き替え中の本殿
古色蒼然とした拝殿 屋根の葺き替え中の本殿


「中宮白山平泉寺境内図」
白山神社所蔵の
「中宮白山平泉寺境内図」(*)
良時代の養老元年(717)に泰澄が開いた寺は、古くは「平清水(ひらしみず)」や「白山社」と称していた。後に比叡山延暦寺の勢力下に入ると、「平泉寺」とか「白山平泉寺」呼ばれるようになった。『平家物語』などの記述から、平安時代の末には北陸地方の一大宗教勢力に成長していたことが知られるという。最盛期には、上述のように48の社と36の堂と6000の坊院を擁し、寺領は9万石だったと伝えられている。

山神社には、最盛時の境内の様子を描いた「中宮白山平泉寺境内図」が伝わっている。それを見ると、南谷に3600坊、北谷に2400坊が立錐の余地もないほどに細かく描かれている。

れぞれの坊に一人の僧が住んだとして、6000人の僧が生活できたことになる。そのすべてが修行僧というわけではなく、大半は僧兵だったと思われる。その場合、この白山の麓に立地する山岳寺院は、同時に多くの僧兵をかかえる山城の様相を呈していたにちがいない。

ころで、気になるのは6000人の僧の生活を支えた経済力である。9万石の寺領を有していたのであれば、荘園から収穫する米を、高い利子を付けて貸しつけていたという説がある。そうした貸し付けを繰り返す金融活動によって、富を蓄えることができたという。



鬱蒼とした杉の大木と分厚い苔(こけ)で覆われた境内

杉の大木の下に敷き詰められた苔の絨毯
杉の大木の下に敷き詰められた苔の絨毯

泉寺白山神社が参拝客を引きつける最大の魅力は、境内を絨毯のように覆う緑の苔であろう。鬱蒼とした枝を張る杉の大木の根元が分厚い苔で覆われている。作家の故司馬遼太郎氏は『街道をゆく 越前の諸道』の中で、その様子を”冬ぶとんを敷き詰めたようだ”と表現している。

ああああ ああああ

ああああ ああああ

地を訪れることを勧めてくれた知人は、よほどこの神社の苔の美しさに魅せられたにちがいない。京都の西芳寺よりもすばらしく、梅雨の季節に一段と美しさを増す境内の苔は圧巻だと語ってくれた。梅雨が明けて極暑の日々が続いている今日このごろでも、巨大な杉が立ち並ぶ境内に足を踏み入れると、幽玄の世界を感じさせてくれる。



平成元年度から始まった発掘調査

白山平泉寺推定復元図 国指定史跡の範囲と調査地
白山平泉寺推定復元図(*) 国指定史跡の範囲と調査地(*)

学のシオリには、15世紀中頃から16世紀はじめにかけての平泉寺の境内を復元した図が描かれている。それを見ると、中央の丘陵の尾根に神社・仏閣の建物が甍を並べ、丘陵の北と南の谷に坊院がひしめくように描かれている。

叡山をもしのぐ多くの坊院を擁した平泉寺だが、天正2年(1574)の一向一揆との戦いに敗れ、全山が焼失してしまった。平家一門や織田信長、豊臣秀吉といった権力者が時に応じて宗教を弾圧する例は多い。だが同じ仏教門徒同士が異なる宗派の寺院を襲撃するといった事例はあまり聞かない。なにはともあれ、平泉寺が全焼する光景は灼熱の地獄絵そのものだったにちがいない。

吉の時代や江戸時代になって、平泉寺の6つの坊と2つの寺が再興された。復興した平泉寺は福井藩や勝山藩から寄進を受けて、400石を領していた。しかし、室町時代の最も栄えた頃までは力を盛り返すことができなかった。6千坊と称された坊院はほとんど再興されることはなく、いつしか山林や田畑のしたに埋もれてしまった。明治になると神仏分離令が出され、平泉寺が廃され白山神社となった。

南谷坊院跡に縦横に張り巡らされた道路
南谷坊院跡に縦横に張り巡らされた石畳道(**)

成元年度から5カ年計画で行われた範囲確認調査では、現在の白山神社の境内から数百メートル離れた場所から平泉寺関連の建物跡や遺物が見つかった。そのため、かっての境内は東西1.2km、」南北1kmの広範囲にわたっていたことが明らかにになり、平成9年にかっての境内のほぼ全域に匹敵する約200ヘクタールが国の史跡に指定された。

現在も調査が行われている発掘現場
現在も調査が行われている発掘現場
山神社の南側に広がる南谷一帯は、3千6百坊と言われる多くの坊院が実際に存在していたことが、発掘調査で明らかになってきている。「中宮白山平泉寺境内図」に描かれた通りの石畳道が見つかり、坊院跡と推定される多くの平坦地や門跡、石橋、排水路、石垣なども発見されている。また、9世紀以降の遺物も約10万点出土しているという。

谷一帯は、今は山林や田畑に姿を変えているが、その下には中世の都市がそのまま埋まっている。発掘調査は現在も行われていて、参道脇から南谷方面に下る道筋に発掘現場の標識が立っていた。青いシートで覆われた発掘現場に立つと、不思議な感動に襲われた。かってこの地で修行した6千人の僧侶たちの生活空間が自分の足元に眠っている。彼ら一人一人の情念のようなものが大地からわき上がってくるような錯覚すら感じた。

時の越前福井は、宗教王国だった。道元禅師が貴族・権勢に近づくことを避けて越前に移り、現在の永平寺町に曹洞宗の総本山を開いたのは寛元4年(1246)である。朝倉氏に奪われた越前吉崎を取り戻すため石山本願寺派の一向衆が大規模な一揆が起こしたのは天正2年(1574)である。そのときの一向一揆の焼き討ちで、天台宗の末寺だった平泉寺は焼亡した。

、地上には平泉寺の繁栄を示すものは何も残っていない。周りに見えるのは、杉の巨木とその根元に広がる苔の絨毯である。聞こえてくるのは、重くなった稲穂を揺らしながら稲田を渡る夏の風であり、近くの林から降り注ぐセミの声ばかりだ。



(*) 拝観のしおり「白山平泉寺」からコピー
(**)現場の説明パネルから転写


2007/08/20作成 by pancho_de_ohsei