2007/08/01
仏像が来た道

正面入口を見る
東京国立博物館の本館玄関から正面入口を見る (2007/08/01 撮影)


新企画のチラシ
■上野公園にある東京国立博物館の本館は、正面玄関を入ると突き当たりに特別5室がある。そこで、去る7月27から新企画の「仏像の道」という平常展示がスタートした。

■仏像は西北インドのガンダーラ地方で誕生し、中国、朝鮮半島を経て飛鳥時代に我が国に伝わった。「インドから日本へ」というサブタイトルが示すように、この新企画は我が国に到着するまでの仏像の来た道を、各地の仏像を選んで展示しながら展望するという。面白そうなので、立ち寄ってみた。

■我が国最初の仏工とされる鞍作止利(くらつくりのとり、通称、止利仏師)が7世紀の初めに制作したとされる仏像が現在にまで伝わっている。飛鳥寺の本尊とされている飛鳥大仏と法隆寺金堂に安置されている釈迦三尊像である。これらの仏像を制作するにあたって、止利は北魏様式と呼ばれる形式を選んだ。

■当時、遣隋使たちが立ち寄った山東半島では、柔和な東魏様式の仏像も作られていた。それにもかかわらず彼はなぜか北魏様式を選択した。選択しただけではない。止利は釈迦の内面性を追求したのか、通常言われている北魏仏よりも非常に抽象的な風貌の仏像を生み出した。それは時代の風潮だったのか、それとも個人的な好みの問題だったのか。それが最近の筆者の関心事である。そこで、この新企画で得た知識をもとに、仏像の来た道を自分なりに整理していた。

仏教東漸関連地図
仏教東漸関連地図

仏像が作られる以前の礼拝の対象は仏塔(ストゥーパ)

■仏教は紀元前5世紀頃のインドで釈迦(ブッダ)が説いた教えである。ブッダの死後もその教えは遺弟たちによって伝えられてきた。だが、礼拝の対象としてブッダを人間の姿で表すことは禁じられていた。そのため、ブッダの姿は、傘や仏足跡、菩提樹、法輪といった象徴物によってその存在を暗示する手法がとられていた。

■ブッダが亡くなったとき、遺弟たちはその遺骨(舎利)は8つの部族に分配し、仏塔(ストゥーパ)に建てて供養した。そして、仏塔を礼拝の対象とした。

■仏教がインドの一地方の宗教から脱皮したのは、ガンダーラのプルシャプラに都をおいたマウリア王朝の第3代王アショーカ(在位紀元前268 - 232頃)の時代である。アショーカ王の版図は南インドを除くインド全域とアフガニスタンの南半に及び、仏教はこの王の庇護のもとに領内はもとより、領地外へも伝わった。

サーンチーの仏塔
サーンチーの第一仏塔
サーンチーの仏塔
サーンチーの第三仏塔
■アショーカ王は、8つの仏塔のうち7つから舎利を取り出し、あらたに8万4千の仏塔を造営したと言われている。仏塔の周りには、塔門や欄楯(らんじゅん)と呼ばれる囲いが作られ、そこにブッダの伝記や前世の物語が浮き彫りで表したり、蓮華やさまざまな装飾がほどこされた。これが仏教美術の始まりとされている。インドに残る仏塔のうち、アショーカ王時代に建てられた小塔を内部に持つ覆鉢のサーンチーの仏塔は有名である。

■生前のブッダは随機説法を行なったが、その教法形式はさまざまだった。そこで、ブッダの死後、主な弟子たちがたびたび集まって教えを正しく伝えて行くために編集会議を持ち、釈迦の教えをまとめた。これを結集(けつじゅう)という。だが、年数を経るにつれ教説解釈の相違から教団が分裂して、「原始仏教」の時代から「部派仏教」の時代に入った。アショーカ王の時代には、戒律に厳しい保守的な「上座部」と戒律に比較的寛容で自由な「大衆部」に根本分裂し、紀元前後には18から20の部派があったとされている。

■各部派は、いずれも出家者(比丘)を中心とする集団で、それぞれの律を有して自派の正統性を主張して教学論争を繰り返した。当時の比丘たちの最大の関心事は、学問と苦行によってみずからが悟りを得ることを目的とした、自己中心の「自利行」だった。

■紀元前1世紀ころになると、こうした出家者中心の部派仏教に対して、各地の仏塔を拠点とした在家主義的な新しい仏教運動が起こった。彼らはブッダを超越者として神格化し、ブッダの慈悲による一切衆生の救済を強調した。それとともに、悟りを開く前のブッダのように、一切衆生を救おうとする理想的人間像としての菩薩の観念を生み出した。こうして利他行による菩薩道実践を標榜して、自らの道を「大乗」と誇り、自利のみに汲々とする部派仏教を「小乗」とさげすんだ。

■原始仏教や部派仏教では、ブッダ以外に現存する仏を認めなかった。だが、ブッダを永遠普遍の生命体とみなす大乗仏教は、あらゆる世界に無量諸仏が現存すると説いた。紀元1〜2世紀ころには、菩薩行の根本ともいうべき般若思想を宣揚し「小品般若経」が成立し、続いて「法華経」「無量寿経」などの大乗思想を説く教典が作られた。また、西暦100年頃には、北西インドで阿弥陀浄土思想が形成され、以後民衆信仰に重要な位置を占めるようになる。


仏像の起源は2世紀のインドのガンダーラとマトゥーラ地方

■大乗仏教発達期のインドで、もっとも注目される礼拝儀礼の変化が生じたのは、紀元1世紀の末ころである。まずインド西北部のガンダーラで、ややおくれてインド中央部のマトゥーラで、ブッダを人間の形で表現した仏像が作られはじめた。それには、神的存在を人間の形で表現するヘレニズム文化の造形思想の影響があった。仏像の発生によって、従来の仏塔中心の礼拝対象が仏像に変化し、また、仏像を本尊とするさまざまな宗教儀式が発達した。


■ガンダーラ地方では、ヘレニズム文化の影響を受けて、ギリシャ的、グレコ・ローマン的な風貌の釈迦が作られた。ついで、ブッダの修業時代を示す王冠菩薩や弥勒菩薩を示す束髪菩薩などの菩薩像が作られるようになった。

如来座像 クシャーン朝、2〜3世紀、 ガンダーラ 菩薩立像 クシャーン朝、2世紀、ガンダーラ
@ 如来座像、2〜3世紀、 ガンダーラ A 菩薩立像、2〜3世紀、ガンダーラ

■仏像@は、ガンダーラ地方でクシャーン朝時代に作られた仏像である。両肩をおおう通肩(つうけん)に衣をまとい、胸の前で印(いん)を結ぶ。波形の頭髪、西方的な風貌、衣の着方や襞(ひだ)の曲線の作り方は、ガンダーラ仏の特徴をよく表している。

■ガンダーラで作られた如来像は、すでに如来の特徴とされる肉髻(にくけい)を頭上に持ち、白亳(びゃくごう)があり、背後には丸い光背をつけている。仏像BとCもガンダーラ地方でクシャーン朝時代に作られた如来像である。

如来立像、パキスタン、ペシャワール周辺 如来座像、パキスタン、<br>クシャーン朝、2〜3世紀
B 如来立像、パキスタン、
クシャーン朝、2〜3世紀
C 如来座像、パキスタン、
クシャーン朝、2〜3世紀

■仏像Aは、左手に水瓶を持っていることから、弥勒菩薩とされている。ガンダーラの菩薩像は、当時の王侯貴族の姿をモデルにしており、上半身は裸形ながら、首飾りや胸飾り、腕釧(腕輪)など豪華な装身具を身につけている。菩薩像は尊格(そんかく)によって頭髪・冠飾や持物(じぶつ)にタイプがある。ガンダーラの菩薩像の頭髪・冠飾には、頭髪を束ねて結うタイプと、ターバン冠飾をつけるタイプに分かれる。

■ガンダーラでは仏塔の周囲に仏龕(ぶつがん)が作られ、仏像が安置された。時代がさがり西域に仏教が伝わるにつれ、仏塔と仏像を祀る祠堂が作られるようになり、仏塔崇拝よりも仏像崇拝が盛んになっていく。


■一方、中部インドのマトゥーラ地方でも2世紀中頃には仏像が作られている。マトゥーラの仏像は、ガンダーラ仏とは対照的に、力強く、量感に富むインド的な特徴を持つ。

仏座像、1〜2世紀、マトゥーラ 菩薩トルソ、2世紀、マトゥーラ
D 仏座像、1〜2世紀、マトゥーラ E 菩薩トルソ、2世紀、マトゥーラ

■仏像Dは初期マトゥーラ仏の典型的な作品の一つで、顔は若々しく、体躯のたくましく張りがある。頭は剃髪して、頭上でカパルダ型(巻き貝型)と呼ばれる肉髻(にくけい)を表している。方形の台座の上に結跏趺坐し、右手を施無畏印に挙げ、左手は肘を張って左膝に置いている。

■仏像Eは右肩、右腕、左腿、左右の足を欠いているが、首飾り、胸飾りなどを付けている点から推して、王族風の装いをモデルにした菩薩像と考えられている。この像はやや彫りが荒いが力強く、量感のある身体表現をしていて、初期マトゥーラの彫刻の特徴が出ている。


ガンダーラから中央アジアを経由して中国に伝えられた仏教

■インドから東アジアに伝わった仏教美術の宝庫として、石窟がある。石窟はもともと修行者の隠遁所または雨期に修行を行った洞窟であるが、インドでは仏教の石窟は紀元前2世紀ころから造営されるようになった。ガンダーラ地方では1世紀ころから石窟寺院が開かれたが、石窟美術の流れは、ガンダーラ地方から大きく2つに分かれる。

破壊される前のバーミヤン東西大仏
破壊以前のバーミヤン東大仏(左)と西大仏(右)
■一つはアフガニスタンの首都カブールの西約240キロにある山岳地帯の仏教遺跡バーミヤン石窟から西トルキスタンに向かう流れであり、もう一つは東方のタリム盆地(東トルキスタン)に入り、西域の天山南路に沿って、亀茲(きじ)、敦煌(とんこう)へと連なる流れである。仏像は石窟寺院の浮き彫りとして作られ、あるいは壁画を飾る仏画として描かれて、東方へ伝わった。

■したがって、バーミアン石窟は西トルキスタンだけでなく、亀茲や敦煌の石窟群にも大きな影響を与えた。この石窟には東西の大仏だけでなく、天井画や壁画を含め壮大な規模を誇っていた。しかし、その中心的存在だった2体の大仏が、2001年3月、イスラム原理主義のタリバンによって爆破されてしまった。

■東トルキスタンから中国に向かう流れは、天山南路の要地である亀茲(きじ)にキジル千仏洞クムトラ千仏洞など多くの石窟を残している。亀茲とは古代にクチャを中心に栄えたオアシス国家で、古くはホータンと並び称せられた西域の仏教王国だった。中国に仏教を伝えた仏図澄(ぶっとちょう 233〜348年)や鳩摩羅什(くまらじゅう 350〜409年)はこの亀茲出身だった。

■キジル千仏洞は中国で最も早く開かれた新疆随一の石窟で、西域、亀茲石窟群の中で最大規模のものである。3世紀から9世紀ごろにかけて掘られた236の石窟に、計約1万平方メートルの仏教壁画が残り、ガンダーラ美術を思わせる西洋系の顔立ちの仏が多い。

キジル千仏洞 ああああ
キジル千仏洞 第38窟にある伎楽飛天像

■キジル千仏洞では、石窟の真ん中に方柱を残し、その周囲に仏像を置いて、人々はその周りを右回りにまわって礼拝する方柱窟という新しい形式を生み出した。この形式は東の敦煌石窟や雲崗石窟に引き継がれていく。

■キジル千仏洞の壁画群は、西域仏教美術の代表するものである。その壮麗さは、敦煌・莫高窟にも匹敵すると言われている。ただ、残念なことに、塑像はイスラム教徒に破壊され、顔を削り取られた涅槃仏など少数しかない。

仏頭 3〜4世紀 中国、ホータン
F 仏頭 3〜4世紀 中国、ホータン
■仏頭Fは、大谷探検隊が中国新疆ウイグル自治区ホータンで発見して招来した鋳造品である。3〜4世紀頃に作られた仏像の一部で、頭頂部の肉髻の根本を紐でしばり、丸顔に近い顔立ちはガンダーラの北に位置するスワートなどの作例に近いとされ、ガンダーラ式の仏像が広い地域に展開していたことが分かる。

■亀茲に続く石窟は敦煌である。亀茲以東の石窟では仏塔は置かれず、仏龕を作って礼拝のための仏像が置かれるようになった。

■敦煌は、紀元前111年に前漢の武帝が河西四郡の一つとして建設した都市である。敦煌の市街から南東方向25キロの鳴沙山(めいさざん)東麓の岩壁に掘られている莫高窟は、秦の建元2年(366)に沙門・楽そん(らくそん、そんは人偏に尊)によって開鑿されたといわれ、4世紀の五胡十六国の時代から元代までに開かれた石窟の数は総数は1000窟を超える。1899年に莫高窟から六朝から北宋時代の古文書類、経典写本、図画などが大量に発見されたことはよく知られている。

■石窟に描かれた壁画は、その内容によって仏僧画、仏の生涯を伝える絵、伝統的な神話・伝説の内容を絵にしたもの、経変画、仏教史跡画、装飾図案、供養者の7種類に大別できる。莫高窟は、仏教をはじめとして西方の文化が中国に伝わる上で重要な役割を果たした。西晋時代に竺法護を中心とした仏教教団が組織されたのもこの地である。

莫高窟の第96窟大仏殿 初唐に造営された第332窟
莫高窟の第96号窟大仏殿 初唐に造営された第332窟

第57窟南壁に描かれた観音菩薩 第275窟(北涼)の本尊交脚菩薩
第57窟南壁に描かれた観音菩薩 第275窟(北涼)の本尊交脚菩薩

中国への仏教伝来

■紀元前2世紀〜1世紀にかけて、前漢の武帝は匈奴を制圧して河西回廊を版図に組み込んだ。その結果、天山南路の西域諸国の多くが、漢の勢力圏に入った。そして、流砂の地に点在するオアシス国家を行き交う隊商とともに仏教は東漸し、ブッダ没後400年にして中原の地に伝わることとなった。

■中国へ仏教が伝来したのは、紀元前後と考えられている。『魏略』によれば、前漢の哀帝の元寿元年(紀元2年)、大月氏国の使者伊存(いそん)が博士弟子・景盧(けいろ)に仏教を口授したという。『後漢書』によれば、1世紀後半に仏教信者・楚王英が黄帝、老子と一緒に仏を祀ったと伝えている。

白馬寺の山門
現在の白馬寺山門
■一方、北魏の頃作られたとされる白馬寺建立伝説では、後漢の明帝は、光を放つ金人が西方より来て殿庭に降りる夢を見て、蔡惜・秦景ら18人を西域に遣わし仏教を求めさせたとある。彼らは途中で、白馬に経典や仏像を積んで東に向かう迦葉摩騰・竺法蘭に出会い、二人を連れて洛陽に帰った。そこで、明帝は洛陽の郊外に白馬寺を建立して二人を住まわせた。ここで訳されたのが「四十二章経」であり、中国で訳された最初の経典であるとされている。

■このように、中国に伝えられた仏教はインドから直接入ってきたものではない。とりわけ初期の頃は、中央アジア諸国でいったん受容され、文化的に変容されたものが伝えられた。だが、仏教はすぐに普遍的宗教として中国社会で受け入れられたわけではない。

■当時の漢帝国では、すでに儒教が国教的地位を占めていた。孔子が「子は怪力乱神を語らず」と称したように、儒教は彼岸的思考や呪術的祈祷を徹底して拒否排除する合理的立場を堅持していた。だが、その一方で、「黄老の教え」に代表されるシャーマニズム的俗信も中国社会に底流していた。そこで、当初の仏教は貴族の西域趣味と結び、西域からもたらされた新規な神としてとらえられていた。

■後漢末になって、支配体制の動揺で社会不安が増すと、国教として儒教の既成価値観が揺らぎ、讖緯説が流行し、民衆反乱につながる原始道教的新興宗教運動が活発になった。そのため、仏教は黄老の教えに似た神仙方術的なものとして、中国人の間に広まっっていった。

■後漢が滅亡し、三国、晋の時代を経て五胡十六国の時代を迎えると、華北の地を占領した北方異民族国家は、従来の漢民族の儒教イデオロギーに代わる新たな支配イデオロギーを仏教に求め、仏教は新しい役割を担うようになった。インドの精神風土で生まれた仏教は、国家との関係は「教主王従」だったが、五胡五胡十六国では、仏教を国家目的遂行の次元においてのみとらえられ、「王主教従」が当たり前とされた。

■華北を統一した北魏は、仏教を王権に帰属させ、各地に教化僧を派遣して、皇帝のため、国家のため釈迦像や弥勒像を作るよう指導した。その結果、雲崗竜門の石窟では釈迦と弥勒の造像が顕著になり、北魏の歴代皇帝を過去仏(釈迦)に、現皇帝を当来仏(弥勒)に擬した。すなわち、仏像は皇帝崇拝と鎮護国家を祈念する対象として作られた。

如来三尊仏龕
如来三尊仏龕、陝西省西安宝慶寺出土品
唐代、8世紀(東京国立博物館蔵)
■中国仏教のもう一つの特徴は、中国社会の伝統的な祖先崇拝の風習と結合して、亡父母の昇天などを願う祖霊追善のために流布したことである。

■一方、教学の面から見ると、複数仏教の伝来という特異な様相を帯びていた。すなわち、インドや西域からの伝道僧たちは、ブッダ入寂後数百年の間に複雑多岐に分派し発達した仏教を一度に伝えた。また、長い年月をかけて順次成立した教典も、一度に仏説としてもたらされ、そして漢訳された。そのため、これらの教典を釈迦一代の教説と矛盾なく分類配列し、体系化を行う教相判釈(教判)が問題となった。その結果、教典仏教である中国仏教は、教判を基盤としてさまざまな宗派を生むこととなった。


■大同の西約16kmにある武周山の麓に築かれている雲崗石窟は、洛陽の竜門石窟、敦煌の莫高窟と並んで中国三大石窟の一つに数えられる華北最大の石窟寺院である。開鑿(かいさく)は北魏の和平元年(460)に始まり、太和18年(494)の洛陽遷都を経て、正光5年(524)まで約64年をかけて行われたという。第3代・太武帝の廃仏の後に即位した文成帝は仏教復興の詔を下し、仏教教団を統率する中央官庁である沙門統の長官に高僧・曇曜(どんよう)を任命した。

雲崗石窟
雲崗石窟

■和平初年(西暦460年)から5年間、曇曜の指揮によって開鑿されたとされる石窟は、特に曇曜五窟と呼ばれていて、西方の第16窟から第20窟の5窟がこれに相当する。曇曜五窟は、北魏仏教が世俗の王権に依存していた特徴をよく表している。本尊はいずれも巨大であり、それぞれの石窟において主要な位置を占めている。五窟の大仏はそれぞれ北魏建国の五人の皇帝を象徴しているという 。

雲崗石窟を代表する第20窟の露坐の大仏 第16窟の本尊・釈迦仏立像
雲崗石窟を代表する第20窟の露坐の大仏 第16窟の本尊・釈迦仏立像


■西暦494年、北魏の孝文帝(こうぶんてい)が都を平城から洛陽に遷した。その時から、大同の雲崗石窟を引き継ぐ形で、伊水の両岸の石灰岩の岩肌に石窟造りが始まった。それから400年にわたって、東・西魏、北斉、隋、唐の各王朝が石窟を掘り続けた。それが龍門石窟である。

龍門山に掘られた石窟群
伊水右岸の龍門山に掘られた石窟群

■石窟の造営は 北魏時代と唐時代に最も盛んに行われた。西山には北魏から唐代までの石窟があり、南北約1kmの範囲に総計2137の窟・龕(1352の石窟、785の石龕)が穿たれ、仏像は10万体にものぼる。東山にも石窟はあるが、ほとんど唐代のものである。

■北魏時代の石窟としては、古陽洞(こようどう)、賓陽洞(ひんようどう)、蓮華洞(れんげどう)などが有名である。その他に、一万五千体もの小仏が彫られた万仏洞(まんぶつどう)や摩崖三仏龕(まがいさんぶつがん)などもある。だが竜門石窟の最大の見所は、奉先寺(ほうせんじ)である。この寺は、唐の高宗のとき、北魏の宣武帝が掘削を初めて中断した場所に、高さ17mの廬遮那(るしゃな)仏を彫り、その前に堂宇が建立された。盧舎那仏は武則天皇后の顔を模しているともいわれている。

龍門石窟奉先寺の大仏 賓陽中洞主仏像
龍門石窟奉先寺の大仏 賓陽中洞の主仏像


■北魏が華北を統一した439年からはじまり、隋が中国を再び統一する589年まで、華南では宋、斉、梁、陳の4つの王朝が興亡を繰り返した。中国史ではこの時代を南北朝時代と呼んでいる。特に、南朝の梁の時代は、武帝が仏教を奨励することで国内が治まり、多くの寺院が建立されて仏教文化が栄えた。梁の最盛期には226の寺があったとされる。文献の上では、南宋、南梁などにおいて、多くの造仏が行われていたことが知られるが、今日現存するものは極めて少ない。仏像の様式として”南朝様式”なるものがどのようなものだったか定説がなく、専門家でも意見が分かれる。

■それに対して、北魏は随所にガンダーラ仏の遺風を残しながら、北魏様式と呼ばれる中国風の独特の造形を確立させた。表現が力強く端厳で男性的である、杏仁形(きょうにんけい)の眼、仰月形(ぎょうげつけい)の鋭い唇、左右対称の幾何学衣文(えもん)が特徴で、正面観象を重視している。

菩薩頭部 北魏時代
菩薩頭部 北魏時代
竜門石窟 賓陽中洞
■右の菩薩頭部は、竜門石窟の賓陽洞(ひんようどう)の中洞で見つかったものである。賓陽洞は、北魏の宣武帝の命によって6世紀の初めに造営が始まったが、北魏時代に竣工したのは3つの洞のうち中洞のみで、南北2洞は唐代に完成したとされている。この頭部は中洞側壁に刻まれた脇侍像のもので、杏仁形の目、口元に微笑を浮かべた表情は、この時代の典型といえる。

■北魏の孝文帝は太和10年(486)、服制の改革を行なった。それが仏像の着衣の形式にも表れ、改革以前は、初期曇曜諸窟にみられるようなガンダーラ、グプタ式の着衣形式だったが、改革以後は北魏の服制の着衣形式をとっている。さらに、孝文帝の洛陽遷都によって新たに竜門石窟が開鑿されるようになると、それまでの雲崗様式にも変化が出てきた。

■具体的な特徴としては、浮彫的表現やシンメトリックな処理、大きな懸裳(かけも)などが造形に表されるようになった。520年〜534年頃に築かれたとされる鞏県石窟の摩崖仏などにこうした特徴をみることができる。竜門様式と呼ばれるこうした特徴は、後に我が国の止利仏師にも影響を与えることになる。

鞏県石窟の摩崖三尊像の主尊 鞏県石窟の第1窟仏坐像
鞏県石窟の摩崖三尊像の主尊 鞏県石窟の第1窟仏坐像


■北魏(439 - 534)は534年に東西に分裂し、西魏(535 - 555)は長安に都を建て、東魏(534 - 549)は旧都洛陽を北上して鄴(ぎょう)に都を据え、年号を天平と改めた。この東西魏の時代も、基本的には竜門様式をそのまま受け継いだと見られている。だが、東魏においては、山東省の土地柄で育まれた重厚温和な造形感覚が見られるようになった。

如来三尊像 東魏時代 6世紀 ああああ
如来三尊像 東魏時代 6世紀 天平4年(537)正月の銘がある
如来三尊像 東魏時代

■上図左の如来三尊像は、東魏時代のものだが、北魏時代に創り出され、その後まで引き継がれた中国式の服制に身を包んでいる。中尊が纏っている大衣は、本来は一枚の布であるが、両腕から足下に垂れる様子は、あたかも振り袖状の衣のようにも見える。正面観照を強く意識して作られており、側面から見ると奥行きはわずかしかない。

■上図右の如来三尊像も東魏時代のもので、天平4年正月(537)の銘がある。東魏的特徴として穏やかな丸みのある造形が指摘される。舟形の細長い光背(こうはい)を負い、両脇侍を従えて立つ中尊の姿は、中国式の厚手の衣の表現とあいまって、威厳に満ちている。

■東魏の後期から、仏像の衣装に、衣や裾が薄く、衣摺が重なり合い、衣紋が二重線になって垂れさがる服装を纏った様式が多くみられるようになった。そのため、南朝仏教の影響を強く受けていると言われる。

龍興寺遺跡出土の仏三尊像のうち
主尊と左脇侍菩薩 東魏時代の菩薩立像
龍興寺遺跡出土の仏三尊像のうち
主尊と左脇侍菩薩
東魏時代の菩薩立像

■1996年、山東省の青州市にある龍興寺址から400体にものぼる石仏が出土するという大発見があった。上図左に示した仏三尊像はその中の一つで、実は主尊の足元に現れた二頭の竜がその口から蓮華をはき出し、その蓮華の上に両脇侍が立っている。こうした造形は東魏時代の三尊像に見られる特色だそうだ。いすれの仏も口元に笑みを浮かべ柔らかい表情をしているが、面長ではない。

■東西魏に続く斉・周時代になると、今までの様式を破り、新しいものがでてくる。その主な特徴として、菩薩像に三面宝冠をつけること、瓔珞が豊富になってくること、冠帯、授帯が必ずしもシンメトリックではなく、線の表現が自由になってくること、衣端がはねかえらず垂下すること、面相が丸くなり表情が平明になること、肉付がゆたかになり胴が少々くびれてくること、光背が円光もしくは、火焔をのせた円光になること、などが挙げられる。

ああああ ああああ ああああ
菩薩五尊像、6世紀、北斉 勢至菩薩立像、6世紀、隋 仏三尊像像、8世紀、唐

■次の隋(589-616)の時代になると、三面宝冠はもっと装飾的なものとなり、宝飾が加って円筒に近い宝冠を着けた菩薩像が増えてくる。造形の肉付も豊かになり、腰のひねりも大きくなってくる。我が国の止利仏師が活躍するのは、時代的には中国の隋から初唐にかけての時期である。だが、その作風は北魏様式に多大な影響を受けているされている。当時は、大陸文化の影響は専ら半島を通じてもたらされた。仏教も例外ではない。中国からの直接の影響ではなく、朝鮮半島にあった高句麗や百済が途中に介在した。

■北魏時代(386-534)の仏像の典型的な様式は、痩身・細面、眼は半ば開き、口もとには、いわゆるアルカイック・スマイル“古式の微笑”だった。唐代(618?907年)になると、豊満・丸顔、眼はほとんど閉じ、口もとの微笑はない。より写実的になり、胸の厚み、腹のふくらみ、細腰のくびれ、ももの張りなどが強調される。装飾的要素も、それぞれ複雑となる。6世紀後半の北斉の仏像は、眼を閉じて瞑想する丸い頭部をもち、豊満で力強い身体で表現されている。北魏から唐への移行を準備している。

朝鮮半島への仏教伝来

■朝鮮半島にあった高句麗・百済・新羅の三国のうち、仏教が伝来したのは高句麗が一番早い。『三国史記』には、「小獣林王2年(372)夏6月、前秦王の苻堅が使者と僧の順道を高句麗に遣わし、仏像と経文を高句麗に伝えた」とある。さらに、2年後の374には、僧の阿道が高句麗にやってきた。小獣林王は省門寺と伊弗蘭寺を創建し、順道と阿道をそれぞれの寺に住まわさせた。広開土王(在位391 - 412)は、391年3月、仏法を崇信して福を求むべしとの詔を下して仏教を保護し、翌年には平壌に9寺を建立している。どのような仏像が本尊としてこれらの寺に祀られたのかはわからない。

■それから12年後の384年、今度は東晋から百済に仏教が伝えられた。百済の枕流(とむる)王が東晋の孝武帝の許に使者を派遣したところ、胡僧の摩羅難陀(まらなんだ)が東晋から百済に遣わされたという。枕流王は摩羅難陀を宮内に迎え礼敬した。 『三国史記』は、枕流王2年(385年)に漢山(韓国のソウルの地)に仏寺が建立され、十人が出家し僧となったこと、および392年に仏法を崇信して福を求むべしとの詔を下したと伝えている。

菩薩立像、6世紀、高句麗 弥勒菩薩半跏像、7世紀 ああああ
菩薩立像、6世紀、高句麗 弥勒菩薩半跏像、7世紀、
伝百済
泰安(テアン)磨崖三尊仏
造像時期:600年前後
■しかし、百済関係の史書にはその後6世紀まで仏教関連の記述は見あたらない。武寧王(在位501 - 523)の時代になって、たびたび朝貢の使者を梁に派遣している。武寧王はこうした朝貢を通して梁の仏教文化を積極的に導入したと思われる。武寧王の時代の王都だった現在の公州には、百済時代の創建とみられる寺院跡として大通寺、西穴寺、南穴寺の三カ所があるという。

■武寧王のあとを継いだ聖王(在位523 - 554)も、仏教の導入に熱心だった。梁から招いた工匠などで、百済では多くの寺院が造営されたようだ。泗沘城時代に創建された寺院址として、定林寺址・王興寺址・金剛寺址・軍守里寺址・弥勒寺址・帝釈寺址などが現在までに確認されている。仏教建築文化の先進国となった百済は、新羅や日本の仏教文化にも大きな影響をあたえた。

■新羅への仏教伝来は、高句麗や百済の場合とは様相を異にする。訥祗王(在位417 - 458)のころ、高句麗から僧の墨胡子が一善郡(現在の慶尚北道善山に比定)の毛礼の家に来たことに始まる。新羅では、仏教が宮廷=貴族層に正式に受容されるには、さらに1世紀近い月日を要した。しかも、法興王15年(528)の異次頓の殉教というプロセスを経なければならなかった。

我が国への仏教の伝来と飛鳥時代の造像活動

■我が国に仏教が伝来した時期は『元興寺伽藍縁起并流記資財帳』によれば、538年(欽明戊午)、『日本書紀』によれば、552年(欽明13)とされている。この年、百済の聖王(聖明王)が使者を遣わして、仏像と仏具、教典を送ってきた。、どちらの年代が史実かはいちがいに断定できないが、いずれの年も百済は国家存亡の異常事態の中にあった。我が国に仏教を伝えたのは、見返りとして軍事援助の拡大強化をねらった外交戦略だったと、理解されている。

■このとき欽明天皇がとった態度は象徴的である。天皇は送られてきた仏像を蘇我稲目に与えて、礼拝することを認めた。他の豪族たちには非奉仏の立場を認め、天皇自身も傍観・中立の立場をとった。つまり、天皇家が奉仏の立場を取らなかったために、この国での仏教の普及は、587年の蘇我−物部戦争の決着を見た後のこととなった。

■百済の聖王からの国家レベルでの仏教伝来の他に、それ以前に渡来系氏族が私的レベルで仏教を崇拝していたことは当然ありうる。たとえば、『扶桑略記』は、「522年(継体16年)に来朝した鞍作村主司馬達等 (くらつくりのすぐりしめのたちど)が、大和国高市郡坂田原に本尊を安置して帰依礼拝した。世を挙げてこれを大唐神といった」と伝えている。

■584年(敏達13年)9月、鹿深臣が百済から弥勒の石像一体を持ち帰った。また佐伯連も仏像一体を持ち帰った。蘇我馬子は、この二体の仏像を貰い受けて、自宅の東に仏堂を建てて祀っている。その蘇我馬子が587年に物部守屋を滅ぼすと、さっそく、氏寺建立のために寺工、鑪盤博士、瓦博士、画工の派遣を百済に要求している。これらの寺院建立技術指導者たちは翌年来日した。

■面白いことに、新しく仏教寺院を建立するにあたって、その本尊を制作する仏師の派遣を馬子は要請していないし、百済も派遣してこなかった。ということは、馬子が本尊として祀る仏像をすでに確保していたか、あるいは仏像制作技術者がすでに我が国に居たことになる。そこで、気になるのが10年前の『日本書紀』の記述である。577年(敏達6年)に百済に大別王小黒吉士を派遣したが、大別王らの帰国に際し、百済の王は経論若干巻を献上し、あわせて律師、禅師、比丘尼、呪禁師、造仏工、造寺工の六人を派遣してきたので、難波の大別王の寺に安置したと伝えている。

■現存する飛鳥仏の中では、『日本書紀』も仏師・鞍作止利(くらつくりのとり)の作であると明言している飛鳥大仏が一番古い。この飛鳥大仏は、当初は釈迦三尊像として作られたことが発掘調査で判明している。完成したのは、『日本書紀』では606年(推古14年)、『元興寺縁起』に引く丈六像の光背銘では609年(推古17年)になっている。しかし、1196年(建久7年)6月、落雷によって伽藍が完全に焼失したとき、仏像も焼け落ちてしまった。

飛鳥寺中金堂本尊の復元イメージ 飛鳥大仏
飛鳥寺中金堂本尊の復元イメージ 飛鳥大仏

■残ったのは、わずかに顔の一部と、左耳、右手の中央の指3本だけだったが、仏像のイメージが薄れないうちに元の形を想起しつつ補修されたようだ。しかし、その補修は拙く、往年の銀幕スターだった片岡知恵蔵なみの風貌をしている。そのため、飛鳥時代の仏像の基準作例には指定されていない。

■美術史では、我が国の仏教創成期に造像された仏像を、その造形感覚から止利様式非止利様式に分類している。止利様式とは鞍作止利の工房で製造され各寺に納入された仏像の様式をいう。その粗形は北魏の竜門様式に求められ、北魏、東魏などの造像様式がそのまま百済に伝わり、我が飛鳥朝に伝来したものとされている。

法隆寺金堂の釈迦三尊像 中尊の拡大
法隆寺金堂の釈迦三尊像 中尊の拡大

■止利様式の特徴は、
・頸が円筒形で長く、三道が表されていないこと
・面長の頭部に、杏仁様の目、特徴的な眉の線と額の格好、鼻筋の通った鼻梁、それに仰月形の口唇部でほのかな笑み(アルカイックスマイル)を浮かべる口元で表情を表していること
・通肩の衲衣をまとい、その下の胸部正面に、下着とその帯の結び目を見せる服制
・衣文線は、シンメトリックな処理をしていること
・抽象化した衣文を裳懸座(もかけざ)としている
・造型が総じて平面的であり、正面観のみに力をそそぎ浮彫的な表現であること

■そのため、北魏仏の中でも竜門様式の流れをくんでいるとされている。現在までに遺存している止利様式の仏像としては、法隆寺金堂釈迦三尊像戊子銘釈迦三尊像救世観音像四十八体仏中の数体などがある。

■法隆寺金堂釈迦三尊像は飛鳥時代の仏像の基準作例であり、止利仏師の作とされている。だが、止利が仏師として鋳造したものか、それとも止利工房とでも呼ぶべき仏像制作集団の作品かは、専門家でも意見の分かれるところだ。飛鳥寺の建立を皮切りに有力氏族は競って氏寺を建立し、『日本書紀』は624年(推古32年)には氏寺の建立が46寺院に達するほど盛況だったと伝えている。本尊の仏像制作も注文に応じきれないほど活気を呈したと思われ、制作集団の存在を伺わせる。

■一方で、釈迦三尊像は中国の北魏様式の仏像と造形的には共通するものの、中尊から受ける印象はどことなく違うものがある。筆者には、止利仏師が心で描いていたブッダのイメージを、とぎすまされた感性で抽象化したように思えて仕方がない。その表情からうける印象は凛とした厳しさである。龍興寺遺跡出土の三尊仏のようにほほえみかけるような優しさはない。

法隆寺夢殿の救世観音像 観音像の拡大
法隆寺夢殿の救世観音像 救世観音像の拡大

■一方、止利様式以外の仏像様式は、一括して非止利様式と呼ばれている。法隆寺の百済観音像、法輪寺の虚空蔵菩薩像法隆寺金堂の四天王像中宮寺の弥勒像、および広隆寺の弥勒像などがその作例である。止利様式の仏像は、645年の乙巳(いっし)の変以後は制作されていないため、止利工房は蘇我氏の配下にあり、蘇我本宗家の滅亡とともに勢いをなくしたと推測されている。そして、非止利様式の諸像は645年以後に、止利工房に代わる別の仏師集団で制作されたとされている。

広隆寺の弥勒菩薩像 中宮時の如意輪観音像
広隆寺の弥勒菩薩像 中宮時の如意輪観音像

■一方では、北魏末期時代に南梁を中心とする様式が百済に流入していて、これが非止利様の原型となったとする説がある。この場合、止利様式と非止利様式の併存の可能性がある。実際には中国でも南朝系の確実な仏像ばその例に乏しく、南宋元嘉銘のある二像が上げられるにすぎない。これだけの遺存例だけでは、その造像様式を確定するには至らない。

■東洋美術史の町田甲一氏などは、百済観音像や法輪寺虚空威善薩像の祖形は、斉・隋様にみられると考られておられる。中宮寺や広隆寺弥勒像の祖形も、北魏仏に求められるとしておられる(『上代彫刻史上における様式区分の問題』)。

法隆寺の百済観音像 百済観音像のの拡大
法隆寺の百済観音像 百済観音像のの拡大



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