橿原日記 平成27年(2015)7月20日

 キトラ古墳に描かれた天文図は何処の星空?

キトラ古墳の天井石に描かれた天文図

 専門家の間で研究結果が食い違う、なんとも不思議な夜空

■ 本日また、先輩のG氏と連れだって東京国立博物館で開催中の「クレオパトラとエジプトの王妃展」を見て来た。この特別展の最後は「クレオパトラを見送った星々」というエジプトの星座を大型スクリーンに映し出して、2015年の現在からエジプトの最後の女王が死んだ紀元前30年前の天文図の変化を見せている。現在と2000年前とでは、北極星のあるこぐま座の位置も微妙に変化している。

キトラ古墳に描かれた四神と十二支像
■ 画面に映し出されたエジプトの星空を見上げながら、文化庁が7月15日にマスコミに公表したキトラ古墳の天文図の共同研究の成果を思い出した。キトラ古墳の石槨の壁には四神や十二支像だけでなく、天井石に天文図が描かれている。これらの壁画の研究から、キトラ古墳は中国や朝鮮半島などの文化的影響を強く受けた古墳であるとされている。

■ キトラ古墳の天井に描かれた天文図は、金箔で作られた星々を赤い線で結んだ星座を示している。さらに天文図には朱色で円が描かれている。最も内側の内規には、一年中見ることができる星座が描かれている。一番外側の外規と内規との間には、季節によって見えたり見えなかったりする星座が描かれている。さらに、円を描く赤道黄道が交わり、春分と秋分の位置を明確に示している。ちなみに、赤道とは天の赤道、黄道とは太陽の通り道をいう。そのため、この天文図は精度の高い天体観測に基づているとされている。

天文図の内規 天文図の外内規

キトラ古墳の星宿図

■ 金箔で作られた350個の星々を赤い線で結んだ星座の数は68個に達する。これらの星座の北極星を中心とした天体運行を、三重の同心円(内規、赤道、外規)や中心のずれた円(黄道〈こうどう〉)で示している。

■ 今回、文化庁と奈良文化財研究所は、相馬充(みつる)・国立天文台助教(位置天文学)と中村士(つこう)・大東文化大東洋研究所兼任研究員(現代天文学)と共同研究を行った。2人の研究者は個別に、精密なデジタル画像に基づいて原図の観測地と観測年代を分析されたとのことだ。

■ 先ず、中村氏は、天文図に描かれた20個以上の星宿の位置から年代を推測。天文図の観測年代については、紀元前1世紀中頃と推定された。そして、この天文図は紀元前の星の位置を記録したとされる古代中国の「石氏星経(せきしせいきょう)」とも整合したという。そのため、中村市は「中国からもたらされた星図を参考にしてキトラ星図が描かれた可能性が極めて高い」と結論づけられたとのことだ。

■ 一方、相馬氏は、天文図に描かれた「二十八宿」と呼ばれる28個の星座などの位置と、長い年月にわたり星の緯度・経度が変化する値の関係を解析された。そして、円や星の位置関係などから、キトラの天文図は紀元後4世紀に北緯約34度地点で観測したものであると結論付けられた。北緯約34度には古代中国の都として栄えた洛陽や長安(現西安)が位置する。そのため、相馬氏は「北緯34度付近にある、当時中国の都長安や洛陽の原図を写し取ったと考えるのが妥当」と話しておられる。

古代人も見上げた飛鳥の上空を覆う満天の星空
■ 筆者は天文学の門外漢であり、2人の専門家が出した結論の当否を判断する能力はない。ただ、素人判断ながら、良く分からない点がある。


(1) キトラの天文図には68個の星座が描かれている。しかし、中村氏はそのうちの20数個、相馬氏は28個の星座(星宿)の位置を対象にしたに過ぎず。いずれも半数に満たない。何故、すべての星座について調べられなかったのか。サンプル的に抽出しても結果は変わらないのだろうか。また、両氏が選ばれた星座は同じだったのだろうか(残念ながら、マスコミ報道だけでは、そうした研究の基本部分が公表されていない)。

(2) 同じような解析を行いながら、天体図の年代が紀元前1世紀中頃4世紀と、5世紀も異なる観測時点を推定されたのはなぜか。地球の地軸は黄道面に対して23.5゚の傾きを持っているため、傾きはじめたコマが見せるような歳差運動をしている。この運動によって、長い年月の間には春分点・秋分点も黄道に沿って少しずつ西向きに移動し、星の緯度・経度も変化する。紀元前1世紀中頃と4世紀とでは、星座の位置はまったく同じということではないはずだ。

キトラ古墳の天井の星
(3) キトラ古墳の天井石に天文図が描かれたのは7世紀末から8世紀初め頃とされている。絵師が手本にしたのは、なぜ外国の、しかもはるか昔の天文図でなければならなかったのか。天文図の源流は確かに中国にあるが、天文図を石室の天井に描く文化は中国にはない。それなのにわが国のキトラ古墳と高松塚古墳には何故天文図が描かれたのか、その背景が言及されていない。

(4) キトラ古墳の天文図に関しては、東アジア天文史の同志社大学教授・宮島一彦氏の先行研究がある。宮島氏は、天文図の中心に描かれた内規と赤道の半径を比較することで緯度を計算され、その結果「北緯38〜39度」という観測緯度を導き出された。ちょうど高句麗の平壌付近にあたる。そのため、宮島氏は「キトラの原図が高句麗で作られ、天文観測に使われたことは間違いなかろう」とされた(【参考】参照)。しかし、今回の研究では、相馬氏は「キトラ古墳の天文図の観測地点を北緯34度付近と推定し、当時中国の都長安(西安)や洛陽の原図を写し取ったと考えるのが妥当」と話している。天文学者が同じ天文図を分析しながら、観測地点が5度も緯度が違うというのは、素人にとっては納得がいかない。

キトラ古墳の天井の星
(5) 宮島氏はまた、すべての星を同じ大きさで描くのは昔の中国の手法だったが、特定の星を大きく描くのは、高句麗や朝鮮半島のそのほかの王国に特有のものだった点も指摘されておられる。 今回のマスコミ報道では、こうした天文図の描き方の差異についても言及されていない。記者発表レベルでは、研究の詳細は省かれたのかもしれないが、キトラ古墳に関心を抱く古代史ファンの多くはすでに宮島氏の研究を知っている。したがって、先行研究と大幅に異なる結果になった正当な理由が説明されなければ、新研究を納得して受け入れられないものと思われる。

「体験学習館」の完成予想図
■ ましてや今回の調査は文化庁自身も参画した学術研究だったはずである。単なる専門家の天体の観測地点や観測年代の特定だけでお茶を濁すわけにはいかない。キトラ古墳の天文図に関係する様々な問題点をクリアする方向性が求められている。来年秋にはキトラ学習館が完成し、天文図も復元されて、その中に展示されるであろう。研究者の間で、参考にした天文図の観測地点や観測時期が異なるのを、どのように解説するつもりなのだろうか。


キトラ古墳に描かれた十二支像
■ 文化庁の建石徹古墳壁画対策調査官は、「キトラ古墳の天文図が精密に描かれていたため、天文学者による分析も可能になった。この結果を踏まえ、さらに研究が進むよう期待している」と話しておられる。しかし、筆者は、キトラ古墳の四神・十二支像・天文図は一体で考えるべきであると思っている。武器を持った十二支像の源流は少なくとも中国にはない。やはり朝鮮半島の壁画古墳の延長上でキトラ古墳を考えるべきだと思っている。

参考:天象列次分野之図

木版天象列次分野之図(部分)
 キトラ古墳に描かれた天文図は朝鮮半島と密接な関係があり、最も近いとされるのが、李氏朝鮮(朝鮮王朝)の時代に作られた「天象列次分野之図」であるとする説がある。同図に付記された銘文から、原図となった石刻星図が高句麗の都・平壌にあり、高句麗が滅ぼされた668年ごろのに戦乱で大同江に沈んだとされている。しかし、後になってこの星図の印本が見つかり、洪武28(1395)年に修正・復元されたという。これが「天象列次分野之図」として現代に伝わっている。橋本敬造・関西大学教授(科学技術史)は、沈んだ石刻星図の拓本か、それをもとにした星図が日本に伝わり、キトラ古墳の原図になったと考えておられる。


【参考・引用文献】

2015/07/21作成 by pancho_de_ohsei
return