2015/07/17

  阿倍仲麻呂(あべのなかまろ)が仰ぎ見た月は、何処の月?



 『古今和歌集』に載った仲麻呂の歌に関わる疑問

月岡芳年が晩年に描いた
『月百姿』の中の一枚)
■ 幕末から明治にかけて活躍し、最後の浮世絵師と呼ばれた月岡芳年(つきおかよしとし、1839 - 1892)が、晩年に描いた連作『月百姿』の中の一枚に、阿倍仲麻呂の詠んだ和歌「天の原 ふりさけみれば 春日なる 三笠の山に 出(いで)し月かも」が似合う絵がある。万葉学者で奈良大学文学部教授でもある上野誠(うえのまこと)氏によれば、この歌は百人一首にも取り上げられたため、国歌「君が代」に次いで日本で最も良く知られている和歌だそうだ。

■ この和歌は、奈良時代の阿倍仲麻呂の作にも関わらず、『万葉集』には記載されておらず、『古今和歌集』の巻九の406番に載っている。歌の意味は、註釈の必要もないほど明快で、
・広々とした大空をふり仰いで遠くを見ると、月が上っている。あの月はかって春日の御蓋(みかさ)の山に出ていた月だよなぁ
といった内容だ。ところが、この歌にはさまざまな疑問があることを最近知った。

百人一首 仲麻呂の札

■ 今週に入って日本列島は連日猛暑に見舞われ、関東地方では熊谷や館林では39度を越す温度を記録している。気象庁発表の気温は、風通しの良い場所に置かれた百葉箱の中で測定した数値である。直射日光のもとでは、優に40度を超えているに違いない。連日大勢の熱中症患者が搬送され、毎日数人の死者が出ている。体力が衰え、さらに体調も今一の筆者には、とても外に出かける勇気もない。そのため、クーラーをつけっぱなしにして、自分の部屋である調べごとをしていた。

上野誠著
『遣唐使 阿倍仲麻呂の夢』
■ たまたま手にした一冊の本が、市立図書館から借りだした上野誠氏の角川選書『遣唐使 阿倍仲麻呂の夢』だった。さすがに今をときめく万葉学者の著作だけあって、従来の仲麻呂伝とはひと味違っていた。仲麻呂が遣唐留学生であるにも関わらず科挙に合格し、律令官僚として唐王朝で出世していった背景を見事にあぶり出している。その中に「天の原ふりさけ見れば」と題する一章があり、この和歌に関するさまざまな疑問を解説してある。

■ 「天の原」歌は、阿倍仲麻呂が天空に上った満月を見上げて詠んだとされている。しかし、上野氏は、この歌には次の2つの疑問があるという。即ち
(A)この歌を詠んだ時、作者が何処にいて、どこから見ている月か明示されていない
(B)作者がかって三笠の山に上る月を見たと云っているが、それが何時のことだったか明示されていない
つまり、この歌にはWhenとWhereを示す要素が欠けていて、読者はこの歌に示された情景を思い描くことができない、と指摘されている。

若草山(三笠山)に上る月
■ (B)については、仲麻呂が遣唐留学生に選ばれる前に平城京の何処かに住んでいた時に眺めた月で、何か特別な思い出につながる月だったのであろう。あるいは遣唐使船に乗り込む前に、最後に訪れた恋人と春日野あたりで惜別の情を交わしながら眺めた月かもしれない。

■ 阿倍仲麻呂の生年に関しては、2つの説があるそうだ。史料となる『古今和歌集目録』に矛盾した記載があるためである。、阿倍仲麻呂は、一方で「霊亀2年(716)に16歳で遣唐留学生となった」とあり、別の箇所では「唐の大暦5年(770)に73歳で没した」と記載されている。前の記述を信用すれば、大宝元年(701)の生まれとなり、後の記述を信用すれば、文武天皇2年(698)の生まれとなる。養老の遣唐使と称される第8次遣唐使が出発したのは養老元年(717)3月だから、仲麻呂は17歳、または20歳で唐に渡ったことになる。将来を約束した女性が一人や二人いてもおかしくない。

■ しかし、上野氏が指摘された(A)の疑問については、何故このような疑問をもたれるのかよく理解できなかった。と言うのは、『古今和歌集』にはこの歌の前に「唐土にて月を見てよみける」と詞書きが付いている。さらに、この歌の後に「明州という所の海辺でかの国の人々が送別会を開いてくれたとき、月があでやかにさし上がったのを眺めて詠んだ」と左注まで付いている。こうした詞書きや左注によって、阿倍仲麻呂が帰国の際、明州の港でゆかりの人々が送別の宴を催してくれたとき、海原から上る月を仰ぎ見てこの歌を詠んだというのが通説になっているのではなかったか?

菊池容斎作「紀貫之」
■ しかし、上野氏はこの歌の詞書きや左注に疑問を挟まれる。先ず、『古今和歌集』は、平安中期に醍醐天皇の勅命で、紀貫之(きのつらゆき)らが中心になって延喜5年(905年)ころ編纂された歌集だが、その時点で参考にした元資料には、詞書きなどついていなかったのでは・・・と推測される。なにしろ、仲麻呂が玄宗皇帝の許しを得て、藤原清河を大使とする第10次遣唐使の帰国船に便乗して帰国の途についたのは、唐の天宝12載(753年)11月で、およそ150年も前のことである。しかも仲麻呂が乗船した船は途中で難破して帰国できず、再び長安に戻り最後は唐土で客死している。そのため、当時流布されていた仲麻呂伝承に基づいて、紀貫之はこの詞書きを記したのであろう、と云われる。

菊池容斎作「藤原公任」
■ さらに、左注についても、専門家の間では後人のものとされているそうだ。時代が降って、10世紀の末以降に藤原公任(ふじわらのきんとう、966 - 1041) あたりが、語りの際に挿入した註釈を付け加えたと考えられている。その結果、仲麻呂が仰ぎ見た月は、唐土の明州というところで、帰国送別宴の折に見た月、つまり海辺の月と理解されるようになった。月岡芳年もそうしたイメージで『月百姿』の一枚を描いている。

■ 『古今和歌集』に「この歌は、中国の明州で詠まれた」との左注があることから、阿倍仲麻呂が帰国の途についたのは明州、すなわち現在の浙江省の寧波市と信じられてきた。しかし、上野氏も指摘されている通り、藤原公任の理解には大きな間違いがあった。4隻からなる第10次遣唐使船が帰国のために待機していた港は、明州ではなく、蘇州の黄泗浦(こうしほ)だった。1,000年以上の歳月を経て明州とする説の誤りに気付き、現在は長江下流の黄泗浦に特定されている。

■ ここで、第10次遣唐使たちの帰国の足取りを、少し詳しく追ってみよう。
●一行が長安を出発して帰国の途に着いたのは、天宝12載(753年)6月中のことである。
●その年の10月15日までには、一行は揚州に到着している。10月15日、大使の清河、副使の大伴古麻呂、副使の吉備真備、そして安倍仲麻呂は、揚州の延光寺に滞在中の鑑真のもとを訪れている。そして、すでに五回も渡海に失敗している鑑真に、自分たちとともに遣唐使船に乗船することを勧めている。鑑真は喜んでその申し出を受けたという。
10月19日、鑑真は弟子の僧14名、在家の技術者ら都合24名を急ぎ集めて、揚州から蘇州に向かった。出発地が蘇州の黄泗浦だったためである。

10月23日になって事件が起きた。大使・副使らが会議を招集し、鑑真の下船を要請する決定を下した。理由は、鑑真の乗船が官憲に知られた場合、遣唐使に嫌疑がかかる恐れがあるからである。
11月10日、副使の大伴古麻呂は、自分の指揮する第2船にこっそり鑑真らをかくまってしまった。
11月13日、鑑真に来日を要請した普照(ふしょう)が遅れて蘇州に到着した。唐から優れた伝戒の師を招くために、天平5年(733)の第9次遣唐使船で普照と一緒に唐土に渡った留学僧栄叡(ようえい)は、すでに亡くなっていた。
11月15日 遣唐使は蘇州より出発する。ところが1羽の雉が第1船の前を横切ったのを不吉として、出帆を一日延ばして11月16日とした。その事が、仲麻呂の運命を大きく変えることになる。

■ すなわち、4隻の遣唐使船は翌日の11月16日に出港したが、大使や仲麻呂が乗った第1船は途中で暴風に遭い11月21日に沖縄に漂着する。12月6日に沖縄を出発したが、まもなく座礁し、漂流して現在の北ベトナム北部ヴインまで流された。乗組員180名の大半は現地で殺され、清河・仲麻呂ら10数名のみが755年6月頃長安に戻る。仲麻呂は、期せずしてまた玄宗に仕えることになった。

東渡寺(鑑真記念館)
■ 仲麻呂たちが船出していった黄泗浦は、かつて常熟(じょうじゅく)県に属していたが 、行政区改定で現在は常熟市に隣接する新興港灣都市の張家港(ちょうかこう)に属し ている。その張家港市の長江からかなり離れた内陸部の東渡苑景区に東渡苑東渡寺(鑑真記念館)がある。

■ この和歌の左注では、遣唐使船が出港する前に明州で帰国送別宴が催されたと想定している。しかし、明州は誤りで、送別宴が催されたとすれば、出発を一日延期した11月15日の夜で、場所は黄泗浦の楼閣だったであろう。その席上で、仲麻呂が振り返って見上げた月は、海上ではなく長江に浮かぶ満月だったはずだ。

■ 上野氏は言及されていないが、筆者はこの帰国送別宴は設けられなかったのではないかと考えている。国禁を侵して何回も渡海を試みた鑑真一行の計画を阻止すべく、多くの官憲が港湾に配されていたはずである。その鑑真一行を副使の大伴古麻呂は第2船に匿った。当然、遣唐使たちの間には緊張感が漂っていたであろう。唐の関係者が送別の宴を用意してくれていたとしても、受ける気にはならなかったのではないか。

■ それに、遣唐使たちの公式の送別宴は、当時の外務省にあたる長安城内の鴻臚寺(こうろじ)ですでに済ませている。仲麻呂個人の送別宴も、長安を出発する前に何度も知人たちによって催されたはずである。当時は、高級官僚の旅立ちにあたって送別宴が催されるのが常だった。

■ 阿倍仲麻呂の唐仕官経歴表を下に示す。彼は科挙の試験に合格して唐王朝に32年間も文人派官僚として仕えた。その出世の糸口になったのは、もと京兆尹(けいちょういん、長安の長官)だった崔日知(さいじつち)という人物が、玄宗皇帝に仲麻呂を推薦し、門下省に属する左補闕(さほけつ)という官職を得たことにあるとされている。左補闕の仕事は多岐にわたるが、基本的に皇帝に近侍して皇帝の移動に付き従う供奉(ぐぶ)や皇帝の政治の行き過ぎを諫める諷諫(ふうかん)などで、皇帝の側近として玄宗皇帝に寵愛されたようだ。

■ そのため、第9次遣唐使が733年に来たときは、一緒に帰国する願いを出しても許されなかった。第10次遣唐使の来朝で、752年にやっと玄宗皇帝から帰国の許可が下りた。この年、仲麻呂は宮中の蔵書を管理する役所の長官である秘書監(今日の国立国会図書館の館長相当)を拝命していた。その秘書官が、文人官僚として32年間も仕えた唐王朝を辞して帰国するのだ。多くの知人や友人たちが、彼の出発前に邸宅に仲麻呂を招いて連日連夜にわたって送別の宴を催してくれたであろう。だが、彼らが遠路はるばる黄泗浦までやって来て、また最後の別れを惜しんでくれたとは考えにくい。

阿倍仲麻呂 唐仕官経歴表
西暦中国年号日本年号官職と所属位階年齢備考
721 - 727玄宗・開元9 - 15年中養老5 - 神亀4校書(左春坊・司経局)正9品下21 - 27下位の文系職
727 - 731開元15 - 19年中神亀4 - 天平3(左)拾遺(門下省)従8品上27 -31下位の文系職
731開元19年天平3左補闕(門下省)従7品上31中位の側近官
734 - 751開元22 -天宝10載中天平6 - 天平勝宝3儀王友(親王府)従5品下34 - 51ご学友の官
752 - 753天宝11 -12載頃天平勝宝4 - 5衛尉少卿(衛尉寺)従4位上52 - 53兵器庫管理官の副官
753天宝12載天平勝宝5秘書監(秘書省)従3品53最高位の文筆官
753天宝12載天平勝宝5衛尉卿(衛尉寺)従3品53兵器庫管理官の長
760 - 761粛宗・上元年中天平宝字4 - 5左散騎常侍(門下省)従3品60 -61高位の側近官
760 - 761上元年中天平宝字4 - 5鎮南都護(鎮南都護府)正3品60 - 61高位の地方官
764代宗・広徳2年天平宝字8左散騎常侍(門下省)正3品64高位の側近官
766永泰2年(大暦元年)天平神護2安南節度使(安南都護府)正3品66高位の地方官
770大暦5年宝亀元贈路1州大都督従2品70死後に送られた名誉号

■ この種の送別の宴では、送る側と送られる側の間で漢詩をやりとりするのが当時の習慣だった。仲麻呂は玄宗皇帝の宮廷内において広い人脈を築きあげ、詩のやりとりを通じて交際していた文人が多かった(李白(りはく)、王維(おうい)、儲光義(ちょうこうぎ)、趙■(馬+華)(ちょうか)、包佶(ほうきつ)、劉長卿(りゅうちょうけい)など)。そのため、日中の史料の中にも、7編の漢詩が残されている。その中に、王維(おうい)の「秘書晃監の日本国へ還るを送る」と題する五言排律がある。

詩仙堂額「終南別業」(狩野探幽)
送祕書晁監還日本國 (秘書晁監の日本国に還るを送る)
積水不可極 (積水 極む可からず)
安知滄海東 (安んぞ 滄海の東を知らんや)
九州何處遠 (九州 何れの處か遠き)
萬里若乘空 (万里 空に乗ずるが若し)
向國惟看日 (国に向かって惟(た)だ日を看(み))
歸帆但信風 (帰帆は但(た)だ風に信(まか)すのみ)
鰲身映天K (鰲身(ごうしん)は天に映じて黒く)
魚眼射波紅 (眼は波を射て紅なり)
ク樹扶桑外 (ク樹は扶桑の外)
主人孤島中 (主人は孤島の中)
別離方異域 (別離 方(まさ)に域を異にす)
音信若爲通 (音信 若爲(いかん)ぞ 通ぜんや)

【現代語訳】
ひろびろとした海はきわめようもない。東の海のさらなる東、君の故国のあたりのことなど、どうしてわかろうか。中国の外の九大州のうちでどここがいちばん遠いのだろう。君の故国へ万里はるかな旅路は、空中を飛んでいくように心ぼそいものだ。
故国へ向かってただ太陽を目印として見るばかり。帰途につく船は、ただ風にまかせて進むのみ。途中、波間に大海亀の甲羅が大空を背景に黒々と見え、大魚の眼の光りは波頭を射るように輝いて紅に光る。
君の古郷の木々は扶桑の国のかなたにしげり、その古郷の家のあるじである君は孤島の中に住むことになる。これからお別れしてしまえば、まさしく別々の世界の住人となるのだ。便りもどうして通わせることができようか
(石川忠久著「漢詩をよむ 王維100選」より)

■ 王維 (699- 7599)は、唐王朝最盛期の高級官僚で、時代を代表する詩人だった。同時代の詩人李白が”詩仙”、杜甫が“詩聖”と呼ばれるのに対し、その典雅静謐な詩風から”詩仏”と呼ばれ、南朝より続く自然詩を大成させた。開元7年(719年)に進士に及第し、その俊才ぶりによって名声を得た。ほぼ同じ頃進士に及第した仲麻呂とは、生涯の友人だったようだ。その王維が送別の宴で仲麻呂への思いあふれる詩を詠んだ。実はこの詩には105句、545字からなる長大で難解な””がついている。上野氏はその著書のなかで、その詩序の注解を試みておられる。

■ 仲麻呂の送別宴で互いにやりとりされたのは、当然のことながら漢詩であって和歌ではない。仲麻呂はこのとき「銜命還国作」(命を衝(うけたま)りて国に還る作)と題する漢詩を返している。はるか後代の史料に「天の原 ふりさけみれば」の和歌は仲麻呂が作ったとあるからと言って、それがそのまま歴史的事実であるとは限らない。

■ そのため、仲麻呂が唐で詠んだ漢詩を誰かが「天の原」の和歌に翻訳したのだろうとする説が存在する。イギリス人の中国文学者だったアーサー・ウェイリーが唱えた説だそうだが、賛同者は多い。それとは別に、もともとあった作者不明の和歌を仲麻呂の作として仮託したとする説や、伝承上の仲麻呂が歌ったというように語り伝えられたとする説もある。残念ながら、筆者にはこの歌が仲麻呂の実作なのか偽作なのかを判断する能力はない。



 阿倍仲麻呂の国際結婚

興慶宮公園の中にある阿倍仲麻呂の記念碑
■ 上記の王維の詩序には、次のような一文が含まれている。
名は、太学に成り、官は客卿に到りたり。必ず斉の姜(きょう)のみならむやと、高国に帰娶(めと)らざりき
上野氏は、この箇所を「(仲麻呂は)太学に学び、外国からやってきた客臣という立場にありながら、卿まで登り詰めた。(結婚というものは)斉の姜氏のような力のある貴族と縁組みするのがよいとはかぎらないと、唐において貴族の娘と結婚しなかった。それは、高い志があるからであろう。また、仲麻呂は、日本に早く帰って、力のある貴族の娘と結婚して、出世しようともしなかった。それも仲麻呂の矜恃によるものだ」と現代語訳しておられる。そして、王維は仲麻呂が独身であったと推察していた、とコメントしておられる。

大伴古麻呂が新羅と宴会の席次を争った
大明宮含元殿の復元イメージ
■ 果たして、阿倍野仲麻呂は唐土において独身で過ごしたのであろうか。筆者にはどうしてもそうは思えない。遣隋留学生にしろ遣唐留学生にしろ、彼らが唐土に派遣された時はまだ20歳前後の青年であり、長い外国生活を余儀なくされた者が多い。中には、在唐生活20年、30年という者もいる。むしろ現地の女性と結婚して、家族を持って生活していたと考えるべきであろう。ただ、正史は留学生のプライベートな側面までは記録していない。

■ 阿倍仲麻呂の周りには、唐土に渡り現地の女性と結婚した人物が何人かいたことが分かっている。例えば、仲麻呂の従者として同行した羽栗吉麻呂(はぐりのよしまろ)は唐の女性と結婚して、(つばさ)と(かける)という2人の男子をもうけている。唐の法律は、外国の男性が唐の女性と結婚することを認めていたが、結婚しても女性を国外へ連れ出すことは固く禁じていた。そのため、734年に第9次遣唐使が長安に到着したとき、吉麻呂は仲麻呂の許可を得て、翼と翔だけを連れて17年ぶりに帰国した。長男の翼は719年の生まれとされている。ということは、吉麻呂が長安に着いてまもなく唐の女性と知り合って結婚したことになる。帰国したとき、長男の翼はすでに16歳に達していた。

女帝・武則天が遣唐執節使・粟田真人を招いて
宴を催した大明宮麟徳殿復元イメージ
■ 大宝2年(702)の第7次遣唐使に従って唐に渡った弁正(べんしょう)という秦氏出身の学問僧がいる。彼は唐の女性を愛し、還俗して結婚し、朝慶朝元という2人の男子をもうけた。弁正は養老元年(717)の第8次遣唐使に同行して入唐してきた阿倍仲麻呂の才能を愛し、親身になって世話をしたという。在唐すでに15年、望郷の念もひとしおだったが、異国の妻を迎えて帰国をきっぱりとあきらめた弁正は、遣唐使が帰国するとき、次男の朝元を単身乗船させて日本に渡らせている。日本に渡った朝元は父の俗姓を継いで秦忌寸朝元(はたのいみき・ちょうげん)を名乗り朝廷に仕えた。 それから16年後の733年、第9次遣唐使が派遣されるとき、朝元は判官として随行し、生まれ故郷に渡っている。

■ 在唐53年にわたる阿倍仲麻呂に、唐土で愛した女性がいなかったはずはない。仲麻呂が唐の女性を娶ったという記録はないが、妻子の存在を裏付ける不思議な一文が『続日本紀』に記載されている。仲麻呂が大暦5年(770)に唐で客死して9年後の宝亀10年(779)5月26日に、「わが朝廷が、唐使に託して仲麻呂の遺家族の妻子らに葬礼費用として、東絁一百疋、・白綿三百屯を送った」というのである。その年に来朝した唐使孫興進から仲麻呂の遺家族が貧しくて葬礼を欠くことがあると聞いたことによる処置らしい。

■ そうであるならば、仲麻呂は長安で唐の女性と結婚し家族を持っていたことになる。17歳または20歳で海を渡り、その一生を唐土で過ごした仲麻呂に、愛する異国の妻子がいたのは当然であろう。だが、それ以上のことは何も伝わっていない。



参考:奈良時代前半の遣唐使一覧

回数 西紀 出発年月 遣唐使 西紀 帰国年月 備考
第7次 702 大宝2.6 (執)粟田真人
(大)坂合部大分
(副)巨勢邑治
山上憶良、道慈、弁正
704 慶雲1.7 大宝の遣唐使
707年副使帰国
718年大使帰国
帰路、第二、三、四船遭難
第8次 717 養老1.3 (押)多治比県守
(大)大伴山守
(副)藤原宇合
阿倍仲麻呂
吉備真備
大和長岡
玄ム
井真成
718 養老2.10 養老の遣唐使
坂合部大分、道慈ら帰国
第9次 733 天平5.4 (大)多治比広成
(副)中臣名代
(判)秦朝元
栄叡・普照・玄朗・玄法
734-736 天平6.11
天平11
天平の遣唐使
帰路、第一、二、三、四船遭難、漂流
玄ム帰国
第10次 752 天平勝宝4・閏4 (大)藤原清河
(副)大伴古麻呂
(副)吉備真備
藤原刷雄
(判)大伴御笠
(判)巨万大全
(判)布勢人主
753-754 天平勝宝5、6年 帰路、第一船遭難、南方漂着。清河、仲麻呂、唐に戻る
第二、三、四船漂着
鑑真ら来日


[参考・引用文献]上野誠著『遣唐使 阿倍仲麻呂の夢』(角川選書530)
[作成] 2015/07/18作成 by pancho_de_ohsei

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