橿原日記 平成27年2月25日

 百済救援軍が無謀な白村江(はくそんこう)の戦いに挑んだ背景

白村江の推定位置



白村江の戦い
■ 今から1352年前の西暦663年旧暦8月27日から28日にかけて、朝鮮半島西海岸の白村江(中国や朝鮮の史料では「白江」と呼んでいる)で史上有名な海戦が繰り広げられた。百済復興軍が立て籠もる周留(しゅうる)城へ救援軍を送り込むために何百隻という船団を仕立てて到着した倭の水軍は、大型の戦船170艘で迎撃態勢を整えて待ち受ける唐の水軍に行く手を阻まれた。

■ 倭の水軍は船の数だけは勝っていたが、小舟で構成された船団にすぎない。軍隊を上陸させるためには唐水軍の封鎖線を突破する以外に道はないと考え、海流に逆らい風に逆らって、ガムシャラに4回も突入を試みた。唐の水軍は、その倭の船団を挟み撃ちにし、火玉や火矢を射かけたため、風にあおられて倭船はつぎつぎと炎上し、突破口を開くどころか400艘を焼かれ、兵士たちは争って水に飛び込み無数の溺死者を出すという惨敗を喫した。

炎上する倭船
■ 劉仁軌(りゅうじんき)が率いる唐の水軍は、四戦して全勝し、倭船四百艘を焼き、煙炎は天を焦がして海水は朱に染まった。これが後世『白村江の戦い』と呼ばれている戦闘で、わが国の『日本書紀』だけでなく、中国の『旧唐書』にも韓国の『三国史記』にも詳しく記されている海戦である。そして、戦前までは、わが国が被った唯一の敗戦として、教科書にも記されてきた戦いである。

■ 白村江の海戦の3年前の西暦660年、朝鮮半島にあった百済は、王都の泗沘(しひ)城熊津(ゆうしん)城を唐・新羅連合軍によって陥落され、国王の義慈王は捕らえられて長安に連行され、百済は滅亡した。だが、百済全土が平定されたわけではない。各地で百済復興軍が蜂起して奪われた地方の城を奪還しようとしていた。その百済復興軍から救援軍の派遣と百済の王子余豊璋(よほうしょう)の帰国を要請された大和朝廷の実力者中大兄(なかのおおえ)皇子(後の天智天皇)は、百済復興を支援することを決定し、準備を整えて支援軍を送り込んだ。その結果が白村江で倭の水軍が壊滅的な敗戦を喫する結果となった。

■ 後世の歴史家は誰もが、百済復興支援のためとは言え、東アジアの超大国・唐に対して戦いを挑むとは軍事的に見て無茶な決断だったという。だが、それは後付けの評価である。645年乙巳(いっし)の変で蘇我本宗家を滅ぼし、律令国家を目指して大化の改新を主導してきた中大兄皇子には、別の意図があったのでは・・・・と以前から疑問を感じている。その疑問を解明するために、まずは白村江の戦いにいたる経緯を簡単に追ってみよう。

 百済の滅亡と百済復興軍の蜂起

7世紀代の朝鮮三国勢力範囲
■ 百済の義慈王(在位641-660)は、即位するとただちに貴族中心の政治体制を打破して専制的な権力を握り、新羅への圧力を強めた。そのことが結果的に百済滅亡の遠因となったようだ。即位後は、毎年のように軍隊を派遣して新羅の辺境を犯した。新羅の武烈王(金春秋)が即位した翌年の655年正月には、百済は高句麗・靺鞨と連合して新羅北辺の33城を攻め取った。武烈王はたまらず唐に使者を派遣して援軍を求めた。659年にも、百済は高句麗と連携してしばしば新羅の国境を侵したため、武烈王はしきりに唐へ救援要請の使者を送り続けた。

■ 前王朝の隋は4度も高句麗遠征を繰り返しながら、ついにこれを屈服させることができず、逆に各地で反乱を招き自ら墓穴を掘って自滅した。隋の後を継いだ唐の第2代皇帝太宗も、高句麗の淵蓋蘇文がクーデターを起こし栄留王を殺して甥の宝蔵王を擁立したのを機に、645年自ら親征したが高句麗を屈服させることはできなかった。その後も太宗は高句麗征服をあきらめず執念を燃やしたが、648年の海上よりの遠征も失敗し、649年に高句麗討伐の戦役をやめさせるよう遺言して亡くなった。

■ 義慈王は百済の最盛期をもたらしたが、656年ころから奢侈に流れ、酒食におぼれて忠臣の諫言に耳をかさなくなった。太宗の後を継いだ高宗は、そうした百済の内状を体制の弱体化ととらえ、百済を討って高句麗を孤立させる戦略に方針を変えた。そして、秘密裏に新羅と連合を結んだようだ。660年3月、唐の高宗は左武衛大将軍・蘇定方(そていほう)を総司令官に任命して、水陸13万の百済征討軍を発進させた。

唐・新羅連合軍の侵略経路
■ 蘇定方は山東省から1000里におよぶ大船団で海流にのって東を目指し、徳物島(現在の徳積島)に着いた。一方、高宗の命令を受けた新羅の武烈王は5月26日金ユ信らと共に王都を出発した。さらに、太子の法敏(後の文武王)に兵船100隻を与えて徳物島まで行かせ、6月21日に到着する蘇定方を出迎えさせた。蘇定方は法敏に会うと、「7月10日に百済王都の南の熊津口(現在の錦江上流)で新羅軍と合流し、3万の唐軍と5万の新羅軍で義慈王のいる泗沘(しひ)城を滅ぼしたい」と告げて、帰した。武烈王は法敏の報告を聞いておおいに喜び、百済討伐戦を開始するため法敏と金ユ信らに5万の精兵を与えて泗沘城に向かわせた。

■ 7月10日に総攻撃をかけるべく、唐軍は海路、 新羅軍は陸路をそれぞれ百済王都・泗沘城(現在の忠南扶余郡)を目指した。義慈王は泗沘城で群臣を集め、城を出て戦うか籠城するかの戦略を問うたが、軍議はなかなか定まらなかったという。こうして協議に時を移している間に、新羅軍はやすやすと炭ケン(山+見)(現在の京畿道高陽市付近)を越え、唐の水軍は白江(現在の錦江河口)に入ってしまった。

■ 唐の水軍は、白江で百済軍の抵抗にあったが、これを大敗させて7月10日熊津口に着いた。しかし、合流するはずの新羅の陸軍はまだ到着していなかった。蘇定方は激怒したが、金ユ信が率いる新羅軍が遅れたのは、7月9日、黄山の地で百済の将軍皆伯(かいはく)が率いる5000人の決死隊と遭遇し、激戦を強いられたためである。しかし、唐・新羅両軍は兵を合わせ、水軍を率いて錦江上流に向かい、7月12日、泗沘城を包囲した。

■ 7月13日、夜になって義慈王は近臣とともに泗沘城を脱出して30キロほど離れた旧都熊津城(現在の公州)に逃げた。百済の太子・は泗沘城をでて降伏を申し出、7月13日に城は落ちた。7月18日、熊津城に逃れた義慈王も降伏した。武烈王は蘇定方ら諸将とともに席を並べて座り、義慈王に酒の酌をさせた。百済の群臣はその様子に声を上げて泣き、涙を流さない者はいなかったという。

現在の扶蘇山城から見下ろした錦江

■ 余談だが、現在、扶蘇山の中腹に高麗時代に建てられた皐蘭寺(コランサ)という寺がある。その寺の壁に、660年の百済滅亡の際に貞操を守るため落花岩から宮女達が錦江(白馬江)に身を投げたという伝説を描いた絵が掲げられている。皐蘭寺は身投げした宮女達の魂を慰めるために建てられた寺だそうだ。

落花岩から身投げする宮女たち

■ 占領軍の唐兵は王城の地で略奪、殺戮、強姦などほしいままにしたため、百済移民の反撃は各地で起こった。王城陥落後早くも7月23日には、百済の残余の軍が泗沘城に侵入して撃退されている。鬼室福信(きしつふくしん)という人物がいる。義慈王の父である第30代武王の甥にあたる人物で、百済滅亡後に直ちに旧臣らを糾合して抵抗運動を続け、泗沘城の奪還を試みている。彼は軍事指揮官として群を抜いていたらしく、任存城によって熊津江西北一帯を抑えて根拠地とした。余自信も熊津城近辺の山城で挙兵している。彼らを中心に百済復興軍群が形成されていった。

■ こうして百済遺臣の祖国復興の気運が高まる中、9月3日、蘇定方は中郎将の劉仁願(りゅうじんがん)に兵1万をつけて泗沘城の守りとし、義慈王と王族や重臣93人、百済人12、000人を捕虜として海路唐に戻った。義慈王は長安について数日後に亡くなったと伝えられている。

 倭国の百済救援

■ 大和朝廷が、同盟関係にあった百済の滅亡を知ったのは、660年の9月5日である。百済から派遣されてきた急使によって泗沘城の落城を知った。

蝦夷地へ向かう安倍比羅夫の像
■ その5年前の655年1月、先代孝徳天皇の死去にともない先々代の皇極天皇が重祚し第37代斉明天皇として皇位に就いている。すでに61歳の高齢であった。即位した年の冬に、高句麗・百済・新羅が使を遣わして朝貢してきたという記事以外には、半島三国との通交記事はそれから5年間、『日本書紀』に見当たらない。もっぱら安倍比羅夫の蝦夷征討有馬皇子の変の記述に紙面を割いている。したがって、2ヶ月も前の660年7月13日に羅唐連合軍の攻撃によって、王都泗沘城が落城し百済が滅亡したとは、まさに寝耳に水だったに違いない。

■ 追い打ちをかけるように、その年の10月に新しい情報がもたらされた。百済の佐平の鬼室福信が佐平の貴智(きち)らを派遣してきて、唐の俘虜百余人を献上して、こう伝えた。確かに泗沘城や熊津城は唐/新羅連合軍によって陥落させられたが、百済全土が平定されたわけではない、各地で百済復興軍が蜂起して、唐・新羅連合軍に奪われた地方の城を奪還しつつある。そこで、唐・新羅連合軍を完全に追い出すために倭の救援軍を派遣願いたい、合わせて人質として倭国に滞在している余豊璋(よほうしょう)を帰国させていただきたい、と願い出た。

■ 余豊璋は百済の最後の義慈王の王子である。わが国と百済の同盟を担保する人質だったが、その来朝時期は不明である。『日本書紀』によれば舒明3年(631)3月としているが、『三国史記』百済本紀には義慈王13年(653)倭国と通好すとあるので、この頃ではないだろうかとする説もある。いずれにせよ同盟国の王子として賓客扱いであり、待遇は決して悪くはなかった。豊璋の人物像は良く分かっていないが、『日本書紀』は643年(皇極2年)に豊璋が三輪山(桜井市)の麓で蜜蜂を放養していたことを記しており、また650年2月に造営途中の難波宮で白雉改元の契機となった白雉献上の儀式に豊璋が出席していたことを伝えている。こうした話から、優柔な性格でしかも知識人だったことは伺えるが、国家存亡を託せるほど軍事的な能力を備えた王子だったとは思えない。

■ そのような豊璋ではあるが、帰国させて百済復興軍の盟主として百済を復興させるのは良い。だが、豊璋の帰国に合わせて倭の救援軍を派遣するのは、いかがなものか。遙か昔、南下政策をとる高句麗に対抗する百済を支援するため、軍隊を半島に派遣したことはある。だが、今回は事情が違う。戦う相手は東アジアの超大国唐と、唐を味方に引き込んでひそかに半島の統一を目論む新羅との連合軍である。

中大兄皇子(=天智天皇)
■ 百済復興軍が優勢に戦局を戦っているというが、その使節がもたらす情報を鵜呑みにしてよいだろうか。救援軍を派遣したことで唐から敵国と見なされた場合、唐の水軍が怒濤のようにわが国を攻めてくるかもしれない。政府首脳は大いに悩んで何回も協議を重ねたであろう。

■ 大和政権の実権を握る中大兄皇子(後の天智天皇)は、百済滅亡の第一報を受けたときは、比較的冷静だった。唐と新羅はそれぞれの思惑で連合を組み、朝鮮半島西側の百済を滅ぼしたが、その故地の支配を巡っていずれは対立し、半島の戦雲はまだまだ長引くことを、冷徹の頭脳の持ち主である中大兄皇子は見通せたのかもしれない。しかし、豊璋を国王として迎えたいという百済復興軍の盟主である鬼室福信の強い意志を受けて、初めて軍事支援を積極的に考えるようになった。別の思惑が彼の脳裏にかすめたのだろう。

■ 百済復興軍の支援要請を受け入れるべきか否かで紛糾する朝廷内の合議をよそに、中大兄は何事につけて「興事を好む」母の斉明天皇をたきつけて復興支援の方針を決定させた。そして、すでに66歳の高齢に達していた母を説得して、北九州への天皇親征を願い出た。天皇が大部隊の軍を率いて遠征することなど、伝説の神功皇后以来たえてなかったことである。海外派兵を決定した斉明天皇は、まず造船技術に優れた各地に勅して船を造らせ、様々な武器を集めて救援軍派遣の準備を整えた。そして、翌661年1月6日、自ら軍を率いて難波を出港し、北九州の娜大津(なのおおつ、博多港)に向かった。

当時の熱田津付近(現在の山市の古三津あたり)
■ 1月8日、天皇の船が大伯(おおく、現在の岡山県邑久)の海に着いたとき、大海人(おおあま)皇子の妃・大田姫皇女が女子を出産した(大伯皇女)と命名)。14日、船は伊予の熱田津(にきたつ、現在の松山市付近)の石湯行宮(いわゆのかりみや、道後温泉)に泊まり、2ヶ月近く滞在した。この緩慢とも思える出征は、各地で兵士の調達を行いながらの進軍だったと思われる。熱田津を発って本来の航路に戻り3月25日に娜大津に着いたが、熱田津を出港するにあたって、天皇は己の意気込みを代弁する歌を額田女王(ぬかたのおおきみ)に詠ませている。
●熱田津に 船乗りせむと 月待てば 潮(しお)もかなひぬ 今は漕(こ)ぎ出(い)でな

■ 娜大津に到着した斉明天皇は、陣営にあって侵攻の準備を整えていたが、4月になると百済の鬼室福信が再び使者を寄越して豊璋の早期帰国を要請してきた。5月に入ると女帝は体調を崩したのかすべてを中大兄皇子に任せて、自身は9日に朝倉宮(福岡県朝倉町)に移った。しかし、健康は回復せず7月24日に朝倉宮で亡くなった。中大兄皇子は喪に服することなく、即位せずに(称制という)救援準備の総指揮をとった。皇子が正式の天智天皇として即位するのは、白村江の敗戦の後、近江大津宮に遷都した翌年の668年1月のことである。


■ 百済滅亡後の百済復興軍の動きや倭国の復興支援の経過は、『日本書紀』と『旧唐書』、『三国史記』の間で矛盾があり、なかなか理解しにくい。岩波書店の日本古典文学大系『日本書紀』下』の補注を参考にしながらその経緯を追うと、およそ次のようになる。

■ 660年7月、百済滅亡後、恩率(おんそつ、百済の官位の第3位)の鬼室福信、僧道チンらは、泗沘城の西部や北部に逃れ、8月中に任存(にんぞん)山(忠清南道大興付近)に拠って柵を築いて山城とし、3万余の兵を集めた。8月26日、唐・新羅連合軍はこれを攻めたが、わずかに小さな柵を破っただけで山城を陥落させることができなかった。

■ 9月3日、唐将の蘇定方は武将劉仁願(りゅうじんがん)に唐兵1万を与えて、武烈王の子金仁泰の新羅兵7千と共に故都泗沘城の守備にあてて帰国すると、23日には百済復興軍はこれらの守備軍を破って泗沘城の外櫓まで突入した。劉仁願はかろうじて内櫓を守った。道チンらは城南の山に柵城を築いて、絶えず泗沘城の奪還の機会をうかがった。これに勢いを得た百済遺臣は各地で挙兵し二十余城に及んだ。こうした状況の中で、9月に百済滅亡の知らせが大和朝廷に届き、引き続いて10月には鬼室福信から救援軍の派遣と百済の皇子余豊璋の帰国要請が届いた。

娜大津を出て行く倭の水軍のイメージ
■ そこで、大和朝廷の実権を握る中大兄皇子は上記のように百済復興支援を決断し、斉明天皇の西下を仰ぎ、娜大津に前進基地を置くと、復興支援の準備を行った。そして、661年8月、次の諸将を第一次百済派遣軍に任命し、救援物資と武器・食糧を運ぶために進発させた。
前将軍安曇連比羅夫(あべのむらじ・ひらぶ)、河辺臣百枝(かわちのおみ・ももえ)
後将軍:安倍引田臣比羅夫(あべのひきたのおみ・ひらぶ)、物部連熊(もののべのむらじ・くま)、守君大岩(もりのきみ・おおいわ)

■ 引き続いて、661年9月 中大兄皇子は娜大津で豊璋に臣下としては最上の冠位「織冠」を授け、多臣蒋敷(おおのおみ・こみしき)の妹を妻に迎えさせて、本国に帰国させた。その際、狭井連擯榔(さいのむらじ・あじまき)と朴市田来津(えちのたくつ)に兵5000を授け、豊璋を護衛させている。豊璋が国に入ると、鬼室福信が迎えにきて、平伏して国の政をすべてゆだねたという。

■ 662年12月、豊璋は防御に適した周留城から食糧確保に適した平坦な僻城(へさし、全裸国道金堤)に移ることを、狭井連擯榔と朴市田来津に提案した。田来津は反対したが、豊璋は強引に僻城に移った。しかし、663年2月には、新羅が百済の南側の4州を焼き払い要地を攻め取ったため、わずか2ヶ月で周留城に引き返すことになった。それ以後、実権を握っていた福信と王としてのプライドのみの豊璋との間に生じた亀裂が深まり、遂には豊璋が福信を殺害してしまった。

■ 663年2月、新羅の将の欽純・天存らは百済の居烈城や居勿城、沙平城を落とし、また徳安城を攻めて斬首1070という成果を上げた。そのため倭国の救援軍を得て全羅北道一帯を勢力下に収めていた豊璋・福信は錦江沿岸付近に戦線を縮小せざるを得なかった。663年3月、百済復興軍の戦況が不利に傾いてきたことを知った中大兄皇子は、第二次派遣軍として2万7千人という大軍を前・中・後の三軍に編成して送った。指揮するのは、
前将軍上毛野君稚子(かみつけのきみ・わくご)、間人連大蓋(はしひとのむらじ・おおふた)
中将軍巨勢神崎臣訳語(こせのかんざきのおみ・おさ)、三輪君根麻呂(みわのきみ・ねまろ)、
後将軍安倍引田臣比羅夫(あべのひきたのおみ・ひらぶ)、大宅臣鎌柄(おおやのおみ・かまつか)
だった。

■ 古代日本の軍事航海史に詳しい松枝正根氏の試算によれば、このときの軍船の合計は560隻、戦闘員10,500,水手16,800だったという。そして、前軍と中軍は南百済に上陸して陸路北上し、後軍は朝鮮南部の西海岸の航路を北上したとし、白村江の海戦で敗れたのは、ほとんどの陸兵を上陸させた後の、戦闘員兼水手が乗船した中・後軍の軍船であったろうと推察している。

白村江の戦い要図(鈴木英夫著「百済の役」より)
■ 百済王が福信を切ったと知ると、これを好機到来として復興軍を壊滅させようと、唐と新羅の連合軍は水陸から周留城に迫った。663年5月、劉仁願と劉仁軌の要請を受けて、唐は7000人からなる増援部隊を山東半島から徳物島へ送り込んだ。そのうちの陸軍は牙山湾から上陸して、百済救援軍や倭からの援軍を打ち破って熊津城に入った。663年7月文武王が率いる新羅兵は熊津城の唐兵と合流して西下すると、8月13日、百済復興軍と倭兵の本拠であった周留城を攻めた。

■ 一方、唐の水軍は劉仁軌を総帥とし、別将として杜爽(とそう)や唐に捕らえられていた義慈王の皇子も加わって、軍船と兵糧船を率いて熊津江から白村江を下り、倭の水軍が周留城を救援するのを阻止するため、白村江の河口に170艘の船を整列させ迎撃の準備を終えた。駿河の国造系の豪族だった庵原君臣(いおはらのきみ・おみ)らに率いられた倭の水軍が白村江に姿を現したのは、唐水軍に遅れること10日、8月27日のことだった。

 白村江の大敗北

■ 錦江(きんこう、クムガン)は大韓民国南西部の主要河川である。全羅北道長水郡の小白山脈に端を発し、忠清南道と全羅北道の道境を流れ、群山(ケンサン)と舒川(ソチョン)の市郡境で黄海に注ぐ。忠清南道公州(コンジュ)からは熊津江、忠清南道扶余(フヨ)からは白馬江とも呼ばれている。錦江は三国時代、百済にとって重要な水上交通路であった。公州には百済の旧都熊津城、扶余には新都泗沘城があり、川にまつわる多くの伝説が残されている。そのため、古代に日本・百済と新羅・唐との間で戦われた白村江は錦江の河口と推定されている。

倭の水軍の船
■ 松枝氏の推定では、当時の倭の水軍の船は1隻に兵25人と馬2〜3頭を乗せ、水手30人くらいで漕いだ40〜50トン程度の船だったようだ。この時代の倭船には矢を防ぐ盾はあっても、相手の船を攻撃する武器を搭載した戦艦ではなかった。海戦になっても、せいぜい弓矢を射かけるか、船上で刀や槍で切り結んだにすぎない。それに対して、唐水軍の船はもっと大型で、一説には防壁を持つ甲板を供え、最上部の楼には石や火玉を遠投できる(ど)と呼ばれる武具を備え、敵の船を撃破したり焼いたりできる戦艦のような楼船も加わっていたようだ。

「武経総要」に図示されている「楼船」
■ 8月27日、倭の水軍の最初に到着した部隊と唐の船軍とが先ず交戦したが、倭の水軍が負けて退き、唐の水軍は陣を固めて守った。翌日は、倭の将軍たちと百済王が相談して、「我らが先制すれば、敵は自然に退却するであろう」との見通しを立てて、陣を固めた唐の軍に向かって突進した。しかし、唐の水軍は左右から倭の船を挟み囲んで火玉や火矢を射かけたため、風にあおられて倭船はつぎつぎと炎上し、船は向きを変えることもできず、入水して溺死するものが多かった。

■ 新羅軍は海戦には参加しなかったようである。倭の水軍が白村江に現れたとき、百済の騎馬部隊は、その岸辺で倭国軍の上陸を援助しようと待機していた。新羅の強力な騎馬隊は、唐軍の先鋒となって、岸辺の百済騎馬軍団を撃破したようだ。しかし、『新羅本紀』にも、新羅軍が白村江の海戦に参加した記述はない。

炎上する倭の水軍
■ 倭の水軍は前後4回に渡って唐水軍の封鎖線の突破を試みたが、ことごとく失敗し、400艘の船を焼かれ大敗した。中国の史書『旧唐書』は、「倭の船四百艘を焼き、その火煙は天まで昇り、海水は真っ赤に染まった」と、このときの様子を描写している。世にいう「白村江の大敗」である。

■ この海戦の決定的な敗北で、大勢は決した。9月7日には周留城が20日の籠城の末に力尽きてに唐軍に降伏し、余豊璋は高句麗に逃れた。このとき密かに城を逃れ出た貴族や将軍たちの中には、妻子たちと共に焼け残った倭の軍船に救助されて、13日には南海に脱出し、25日には倭国に向かった。このとき倭国に移住した百済人は、やがて倭国から日本へ国力が発展する原動力となったことはよく知られている。任存城だけは降伏せず、10月21日になっても落城しなかった。そこで、劉仁軌は降伏した百済軍に武器や食糧を与えて任存城を攻撃させ、ようやく落城させている。こうして、百済復興軍は完全に平定された。

■ 白村江の敗戦で、軍事的に打撃を被った倭国は、9月には半島からの撤退を始める。この敗戦で、推定では3万人以上の兵士を失ったとされるが、倭国は唐の報復に対して深刻な危機感に襲われ、664年2月には25階の新官位制を発令して、氏族への統制を強めるとともに、中央集権体制を強化し、軍事力の確立や増強に懸命だった。そんな中、5月17日には、唐の百済駐留軍司令官の劉仁願の使者として郭務宗(かく むそう)が文官30名、武官と兵100余名を連れて対馬に現れた。戦勝国の戦後処理の使者であったため一応歓待したが、しかし唐の皇帝の使者ではないことを理由に入京を拒んだ。この年、対馬、壱岐、筑紫に防人(さきもり)と烽(のろし)を備え、筑紫には大野に水城を設けて、防衛体制の強化に努めている。

■ 665年9月には、唐の正使・劉徳高(りゅうとくこう)が郭務宗を伴って筑紫にやって来た。総勢254人の大使節団である。劉徳高は高宗からの国書を提出したが、その内容は伝わっていない。しかし、この度は入京を許し、10月には宇治で大がかりな閲兵式を行っている。10月には、唐の攻撃を退けてきた高句麗の蓋蘇文(がいそぶん)が死に、遺児の間で内紛が生じた。その内紛につけこんで、唐は新羅と連合して高句麗の討伐を開始する。

■ それと相前後して、11月には郭務宗が百済の難民と倭国の捕虜2、000人を47隻の船に乗せて対馬に来航した。捕虜の変換は唐と倭の戦争状態の終結を意味した。

 中大兄皇子と中臣鎌足の深謀遠慮

■ 当時の大和政権の実権を握っていたのは、15年前の西暦645年6月中臣鎌足(なかとみのかまたり)らの協力を得て乙巳(いっし)の変を断行した中大兄皇子である。皇子を頂点とする若手革新グループは、蘇我本宗家など豪族たちによって牛耳られていた国の制度を天皇を中心とする律令制度に変革するために結集した集団だった。乙巳の変に続く大化の改新では、国家の変革を目指したさまざまな新機軸を打ち出してきた。あれから15年、実際の国の有り様も制度も、それほど急激に変えられるものではない。

■ たとえば乙巳の変以前のわが国の軍隊は、中央や地方の豪族が従者や隷下の人民を武装させて編成していた国造軍に過ぎなかった。兵士を国家が徴兵して国家の軍隊を編成するには、個々の住民を記載する戸籍を作成し、戸籍を利用して誰を兵士にするかを決定する必要がある。そのためには、戸籍によって人民一人一人を把握できる体制が作られなければならないが、わが国で初めて戸籍が造られたのは、白村江の敗戦から7年後の670年庚午年籍まで待たなければならない。

■ 白村江の海戦の時点では、まだ国民軍は創設されていない。従来通り、中央や地方の豪族に指示して配下の住民を武装させ軍を編成しなければならない。斉明天皇が難波津から娜大津に西下するのに2ヶ月も要しているのは、途中の物見遊山のためではない。山陽道や四国、九州の氏族たちに命じて、住民たちを徴用して西下軍の参加するのを待っていたためである。

■ 白村江の戦いに対して、一般的には、大唐帝国に無謀な戦争を仕掛けたのだから、負けて当然だという評価が多い。だが、当時の政府首脳は、負けると分かっていて参戦したとは考えにくい。中大兄皇子の脇には知謀を持って知られる中臣鎌足がいたことを忘れてはならない。冷徹な判断力の持ち主の皇子と深謀遠慮の股肱の臣とは綿密な検討に検討を加えた果てに、勝算ありと見て参戦を決めたのでは・・・と筆者は考えて居る。長年に渡って同盟関係にあった百済の復興を支援するのは当たり前だという単なる義侠心からではなかったと思う。

■ 実際、鬼室福信から支援要請を受けた時点では、百済復興軍は優勢に戦いを進めていたようだ。倭国からの援軍が合流すれば、最終的には唐・新羅連合軍を駆逐して百済を復興する可能性は十分にあると考えたとしても当然だったと思われる。そのために、中大兄皇子は帰国する豊璋に臣下としては最高位の官位「織冠」を授け、倭人の女性を下賜した。このことは、百済が復興した暁には唐の冊封から抜けて倭国の冊封を受けるという意思表示であった。だが、そうした倭国側のもくろみは、帰国した豊璋と復興軍を主導する鬼室福信の感情的な亀裂によって、もろくも崩れ去った。それが実情ではなかっただろうか。

■ 倭国の百済復興支援には、別の目的があったのではと推測する専門家もいる。『日本書紀』には奇妙な記述が記載されている。663年3月に進発したた第二次派遣軍のうち、上毛野君稚子(かみつけのきみ・わくご)らに率いられた前軍は、6月には新羅の沙鼻(さび)・岐奴江(きぬえ)の2城を攻撃したと伝えているのだ。他の史料には見当たらない記述だが、増援軍は新羅領に上陸し、陸路によっと周留城を目指したのかもしれないと考えられている。だが、『日本書紀』の注では沙鼻は梁山、岐奴江は宜寧と、いずれも洛東江流域の地に擬している。そのため井上秀雄氏は、朝鮮派遣軍の中核部隊は、百済を救援するよりは、新羅と戦って洛東江下流の支配を目指していたようであると指摘している。

■ 洛東江下流は、かって新羅に併合された伽耶諸国があった地域である。562年に伽耶諸国が新羅に併合されて以来、その復興は100年来の倭国の夢だった。深謀遠慮をもって知られる中大兄皇子と中臣鎌足であれば、百済救援の目的の一つにそうした選択肢があったのかもしれない。

■ 国際日本文化研究センター教授の倉本一宏氏は、別の見方をしておられる。中大兄皇子は、百済救援が失敗に終わることも想定していたのでは・・・と言われる。戦争に負けて唐が倭国に侵攻してきたら困るが、攻めてこないくらいの負け方だったら、国内はこれによって統一される、と踏んでいたかもしれないと推察しておられるのだ。

■ 唐・新羅連合軍が来襲してくるという危機感が国内に広まることで、それに立ち向かい我らが祖国を守るには、このままの体制ではいけない、国内の権力を集中して軍事国家を作り、国防に専念しなければならず、今までとは異なる次元の権力集中が必要になる。もっと強力な軍事国家を作るためには、白村江の敗戦は中大兄皇子にとっては「渡りに船」のチャンスであると認識していたかもしれない、と言われるのだ(倉本一宏著『白村江の戦をめぐって』(『いくさの歴史と文字文化』所収))。果たして、そこまで深読みが可能かどうか、筆者には分からない。


【参考・引用文献】豊田泰著『白村江の戦い・元寇・秀吉の朝鮮侵攻』(文芸社)、遠山一郎/丸山裕美子編『いくさの歴史と文字文化』(三弥井書店)


2015/02/26作成 by pancho_de_ohsei return