橿原日記 平成26年(2014)11月9日

鳥毛立女屏風(とりげりつじょのびょうぶ)ヤマドリの羽根を纏った天平の美女たち

「第66回正倉院展」の会場 奈良国立博物館

東京と奈良の国立博物館で同時に展示された鳥毛立女屏風

日本国宝展に出展された鳥毛立女屏風第1・3扇
■ 現在、東京国立博物館で「日本国宝展」が開催されていて、展示入れ替えを含めて119点の国宝が展示されている。その他に、開幕から11月3日までの期間限定で、正倉院御物11点が特別出品されていた。その中に、聖武天皇遺愛の品とされる「鳥毛立女屏風」第1(せん)と第3扇があった。

■ 「鳥毛立女屏風」とは、正倉院に伝わる屏風の一つで、六枚の細長いパネルである(せん)で構成され、各扇に唐装の婦人を一人配した樹下美人図である。天平勝宝8年(756)、聖武太上天皇の七七忌に際して、光明皇太后が夫である天皇遺愛の品を東大寺の廬舎那仏(大仏)に奉献した。それが今日「東大寺献物帳」に記載されている正倉院御物だが、その中でも「鳥毛立女屏風」は特に有名だ。

第3扇(拡大)
■ それぞれの扇に描かれた女性は、眉を日月形に描き、赤い口紅を塗り、ゆったりした衣をまとって、樹下にたたずんでいる。意匠も化粧の表現も、中国唐代の女官の姿を思わせ、舶来品の屏風と思われがちだが、国産である。屏風の下貼りに「天平勝宝四年」(752)と記した文書が使われており、日本製であることが分かっている。唐の最新のファッションや風俗が、遣唐使らを通して伝わり、宮中を彩ったのだろうとされている。

■ これらのふくよかな天平美人を描いた6扇の屏風は、聖武天皇遺愛の品で、寝室を飾ったらしい。類似の壁画は、陝西省長安県で見つかった唐代の玉村韋家墓の壁画「仕女図」にも描かれている。天皇がいかに唐風文化をあこがれていたかがわかろうというものだ。

中国陝西省の玉村韋家墓の壁画に描かれた「仕女図」(*)
■ しかし、制作された当時は、着衣や樹木などにキジの一種であるヤマドリの羽毛が貼られていた。そのため、この名がある。現在はほとんど剥落して下図の墨線のみとなり、彩色された面貌だけが当初の様相をとどめている。

■ 「日本国宝展」にも出展されたのだから「鳥毛立女屏風」も国宝だろうと思っていたが、実は「国宝」ではない。正倉院御物は、皇室の私有品である。皇室にゆかりの深い品々は「皇位とともに伝わるべき由緒ある物」すなわち「御物」とされ、慣例的に文化財保護法による指定の対象外となっている。そのため、国宝や重要文化財などには指定されていない。


「正倉院展」の案内
■ 去る10月25日、東京国立博物館で開催中の「日本国宝展」を訪れ、展示されていた「鳥毛立女屏風」の第1扇と第3扇を見た。だが、「鳥毛立女屏風」は6扇で構成された屏風である。そのうちの2扇を見ただけでは、「鳥毛立女屏風」を見たことにはならなない。たまたま自宅から橿原のアパートに戻る途中で、時間があったので、奈良国立博物館に立ち寄って残りの4扇を見てゆくことにした。

■ 正倉院展は今年で66回目を迎える。正倉院宝物は通常、非公開である。戦前は、定期的に行われる曝涼(ばくりょう)、すなわち夏または秋の天気のよい乾燥した日を選んで行なう宝物の「虫干し」の際にごく限られた人々に拝観を許していていた程度だった。だが、昭和15年(1949)11月には、皇紀2600年記念として東京の帝室博物館(現在の東京国立博物館)で正倉院御物特別展が開催され、大正13年(1924)と昭和7年(1932)には奈良帝室博物館(現在の奈良国立博物館で)で、大規模な染織品の展示が行われたとのことだ。

正倉院(向かって右から北倉、中倉、南倉)

■ 奈良時代、大寺にはそれぞれの寺領から納められた品や、寺の什器宝物などを収蔵する倉があった。これを「正倉」といい、正倉のある一画を塀で囲ったものを「正倉院」といった。南都七大寺にはそれぞれに正倉院があったが、のちに廃絶して東大寺のものだけが残った。そのため、「正倉院」は東大寺大仏殿北西に所在する宝庫を指す固有名詞と化した。

聖武太上天皇(**)
■ 天平勝宝8年(756年)、光明皇太后は夫である聖武太上天皇の七七忌に際して、天皇遺愛の品約650点と、約60種の薬物を東大寺の廬舎那仏(大仏)に奉献した。その後も光明皇太后は3度にわたって自身や聖武天皇ゆかりの品を大仏に奉献し、これらの献納品が正倉院に納められた。これが正倉院のが始まりとされている。

■ 正倉院は、北倉、中倉、南倉に区分される。北倉は主として光明皇后奉献の品を納めた倉である。中倉は武器武具をはじめ、献物几・献物箱・ガラスなど広範な内容の宝物を収蔵し、南倉は仏具類のほか、東大寺大仏開眼会に使用された物品などを収蔵している。平安時代中期には北・中・南の三倉とも,その開扉には天皇の勅を必要とする勅封倉とされてきた。しかし、東大寺の什器類を納めていた南倉のみは、後に勅封から綱封(東大寺別当らの寺僧組織が管理する)に改められた。明治8年(1875)に正倉院全体が明治政府の管理下におかれてからは南倉も再び勅封となっている。

正倉院展の入場券
■ 戦後の昭和21年(1946)に奈良国立博物館で「正倉院御物特別拝観」が開催された。これが第1回正倉院展で、それ以後、秋の2ケ月の曝涼にあわせて開催されるようになった。現在の「正倉院展」の名称が定着するのは昭和27年(1952)頃からのようだ。今回の第66回正倉院展は天皇皇后両陛下の傘寿(80歳)を記念して、10月24日から11月12日までの20日間開催されている。

■ 宮内庁が管理する正倉院の宝物は整理済みのものだけで9000点に達する、そのうち正倉院展で公開される宝物は毎年70点前後にすぎない。そのため、代表的な宝物を見るには、毎年のように見学に出かけることになる。今回の正倉院展では、59点の宝物が展示されている(北倉6、中倉、南倉22、聖法蔵3)。

入館者の長蛇の列
■ かって友人の一人が忠告してくれたことがある。「正倉院展開催中は奈良市内に近づかない方がよい。どこも交通渋滞だし、肝心の正倉院展の会場も連日超満員で、希望の宝物などゆっくり鑑賞できるものではない。云々」 まさに友人の忠告通りだった。

■ 奈良国立博物館に着くと、玄関先から入館者の長蛇の列が幾重にも折り返して続いている。さらに入場制限もされているようで、入館までにかなり待たされるようだった。だが、小生には”伝家の宝刀”がある。身体障害者手帳を見せれば、東京の公共施設では行列に並ばなくても、優先的に入場を認めてくれる。だが、奈良ではその宝刀も通用せず、最後尾に並ばされた。

■ 長時間並ばされてやっと入館すると、ボランテイアガイドの展示品説明が東新館の講堂でまもなく始まるというので、それを聞いてから二階の展示室へ上がることにした。午後3時に展示室に入ったが、噂通り室内は超満員の来館者でごった返していた。展示品を順番に見ていこうと列にならんだが、いっこうに先に進もうとしない。したがって、列を離れて今回の展示で目玉とされている品を何点かでも見て帰ろうと思った。


衲御礼履(**)
■ 先ず、興味を引いたのは衲御礼履(のうのごらいり)である。爪先が反り上がり、先端が二つにわれた儀式用の靴である。聖武天皇が752年の東大寺の大仏完成を祝う儀式で履いたものとされている。長さ31.5cm、爪先幅14.5cmは一般男子の足に比べてずいぶん大きく、この靴を履いて歩くには苦労したものと思われる。

■ しかし、表面は鮮やかに赤に染めた牛革を使い、内側は柔らかな鹿革を使い、金線で縁取りされている。左右に花の形をした飾りが13個ついており、銀製の金具に真珠や水晶、色ガラスなどが嵌め込まれていて、きわめて豪華なつくりとなっている。この靴を履いて仏開眼の法会に臨んだ聖武太上天皇の、悲願の大仏建立を達成して得意満面の笑みを浮かべた顔が容易に想像できる。

大仏開眼供養会の復元イメージ(**) 大仏開眼供養会での伎楽の奉納(**)

■ 東大寺の大仏開眼供養会は、天平勝宝4年(752)4月9日、孝謙天皇、聖武太上天皇、光明皇太后らが臨席して盛大に挙行された。聖武上皇に代わって開眼の導師をつとめたのは、インド僧菩提僊那(ぼだいせんな)だった。『華厳経』が盧舎那仏宝前に講読せられ、その様は、「仏法東帰してより斎会の儀、未だ嘗て此の如く盛なるはあらず」と『続日本紀』が記すほど盛大な法要であったとされている。


白瑠璃瓶(**)
■ 白瑠璃瓶(はくるりのへい)は、高さ27.2cm、胴の直径14cmのガラスの水差しである。下膨れの胴に、くちばし形の注ぎ口が付き、底部に低い輪高台が貼り付けてある。材質はアルカリ石灰ガラスだそうだ。四方から照射された光の中に浮かび上がる淡い緑色の胴は透明である。その胴部に細かい気泡のようなものがちりばめられている。

■ 下膨れの胴を持つ水差しは、ササン朝ペルシャの銀器などに特徴的な形で、中国では「胡瓶(こへい)」として珍重された。この種のガラスの水瓶の製造方法は今も昔も同じだ。熱したガラス胎を吹き竿の先につけて宙吹きし、風船のように膨らませて先ず胴部を造る。その後に吹き口を切り落として、加熱しながら注ぎ口を造る。把手の取り付けは最後の行程である。宙吹きの際にガラス工が吹き込んだ息が、気泡となって胴体のガラスの中に残ったのであろう。そうであれば、千数百年前の中東の空気が閉じ込められていることになる。

ササン朝ペルシャ産の各種水瓶(**)
■ この白瑠璃瓶の産地は類似品の発掘からイランが有力視されている。ガラス製という繊細な器は輸送の途中でも割れやすい。それが、シルクロードという過酷で遠大な道を唐の都長安まで運ばれ、さらに遣唐使たちが長安の都でそれを入手して、玄界灘の波濤をを越えて平城京まで持ち帰ったことになる。

■ 気泡をちりばめた透明質の淡い緑色の胴を見入ると、水瓶が時空を越えて長い旅をしてきた途中の風景がその表面に浮かんで来るように思える。この器を唐から招来したのが遣唐使なら、果たして誰なのだろうか。天平6年(734)に第9次遣唐使に伴われて帰国した吉備真備か僧玄ムなのだろうか、それともt天平勝宝6年(754)に第10次遣唐使とともに来朝した鑑真の一行だろうか。


桑木阮咸(**)
■ 桑木阮咸(くわのきのげんかん)は、中国で成立したと思われる円形の胴をもつ四弦の楽器である。桑の木で造られたバンジョーのような形をしており、総長は102cmを測る。阮咸は、中国・晋代(3〜4世紀)の竹林七賢人の一人阮咸(げんかん)のことだが、彼が琵琶の名手だったこと因んで名づけられたようだ。この楽器は中国に残っておらず、正倉院に本品と螺鈿紫檀阮咸の2つが残っているにすぎない。

腹板中央に張られた捍撥(かんばち)の絵(*)
■ 桑木阮咸の(ばち)が当たる部分「撥捍(かんばち)」には、花びらが8枚ある花を背景に、老松の下で囲碁に興じる人々などが細かく描かれている。近赤外線撮影によって、松や竹の下に獣皮の敷物を敷き、囲碁を楽しむ三人の高士(詩書画や音楽に秀でた文人)が描かれていることがわかった。三人の周囲には胡瓶(こへい)や高士の遊戯とされた投壺(とうこ)が置かれている。

■ 撥捍の上部には、2個の円形の皮が貼られている。近赤外線撮影によって、向かって左の円には太陽を象徴する三本足の鳳凰形の鳥が、また右の円には月を意味するヒキガエルが描かれていることが判明している。槽の部分の背面に、「東大寺」の刻銘があることから、本品は東大寺の法要などで用いられた楽器だったと推定されている。


鳥獣花背方鏡(**)
■ 鳥獣花背方鏡(ちょうじゅうかはいのほうきょう)は正倉院に納められた鏡の中で、唯一の四角い鏡で、一辺17.1cm、縁厚1.6cm、重さ1934.1gを測る。うずくまる獅子の形をしたつまみを中心に、周囲に6頭の獅子と葡萄唐草文が表現され、外側の部分には鳥や昆虫もみられる。獅子の表情やブドウの粒などがよくわかり、白銅(銅に錫を加えた合金)の輝きは今なお保たれている。

■ 化学組成を分析したところ、銅約70%、錫約25%、鉛約5%で、中国の漢から唐のころに造られた鏡と同じ成分であることがわかった。唐からの舶来品であることは間違いない。

■ 鳥や獅子などの動物を組み合わせた「海獣葡萄文」が鋳込まれている。海獣葡萄文鏡は大半が円形の鏡であり、方形の鏡はきわめて珍しい。葡萄の粒や獅子の表情まで細かく表されていて、現在の鋳造技術をもってしても復元が難しいほど高い技術が使われているという。


雑玉幡残欠(**)
■ 雑玉幡残欠(ざつぎょくばんざんけつ)は、実にさまざまな色ガラスの玉を銀線に連ねて、円形の籠のように編んだ玉繋ぎの編み物である。「雑玉幡」という名称は、明治時代に付けられたもので、実際の用途はわかっていない。仏堂の長押(なげし)などに掛けて荘厳する華鬘(けまん)、または法会の時に播かれる散華を入れた華籠(けご)ではなかったかと推測されている。

■ 外周部には直径11mmほどの大玉を用い、内側の籠目部分には直径5mmほどの小玉が用いられている。大玉の数は約100個、小玉の数は約2600個が使用されているという。玉の色は、赤、緑、褐色、青などで、実に美しい。

復元が試みられた鳥毛立女屏風の樹下美人

正倉院展に展示された鳥毛立女屏風第2・4・5・6扇(*)

■ 今回出展された59件の中で最も人気を集めたのは「鳥毛立女屏風」である。樹下にたたずむ美しい女性を描いた正倉院を代表する屏風が15年ぶりに登場したとあって、この屏風を実際に見たくて訪れた来館者は多い。係員が「先へお進みください」と絶えず声をかけているにもかかわらず、黒山の人だかりはようとして動かない。小生も、この出品を見るためにわざわざ立ち寄ったようなものだ。奈良博にくれば、「鳥毛立女屏風」を構成する6扇が全て見られるのでは・・・と期待していた。

天平美人の顔拡大(右より、第2・4・5・6扇)(*)

■ と言うのは、東博に特別出品されていた第1扇と第3扇の展示は、すでに11月3日で終了している。そうであれば、これらの2扇は東京から奈良に返送され、公開中の「鳥毛立女屏風」の4扇に追加して展示されてしかるべきだ。だが、実際はそうなっていなかった。係員に理由を尋ねると、ガラスの展示ケースの中身を変更すれば、ケース内の温度や湿度の設定をやり直さなければならないが、それに1週間ほど要するためだそうだ。

唐代、東アジアで流行した女性の装い(**)
■ 「鳥毛立女屏風」の各扇の大きさは、縦約136cm、横約56cmと、ほぼ同じ大きさである。樹下にたたずむ美しい女性を描いかれているが、いずれも豊満な女性である。一様に、小さく厚い唇には鮮麗な朱を塗り、眉は太く弧に描き、額中央に花鈿(かでん)を描き、さらに、唇の両側に黒点や緑点を描く靨鈿(ようでん)を点じている。こうした化粧は唐代の女性の間でももてはやされたようで、盛唐時代の墓から出土する女子俑でも、あるいはトルファンのアスターナ古墳に築かれた唐代の187号墓から出土の絹に描かれた侍女図でも共通している。

ヤマドリ
■ アパートに戻って、夕食を取りながらNHKのEテレをかけると、午後8時からの「日曜美術館」で「華麗なる天平の至宝〜第66回 正倉院展〜」を放映していた。一週間前に放映された番組の再放送だが、その中で26年前に行われた「鳥毛立女屏風」の復元の試みを伝えていた。復元に挑戦されたのは、日本画家で花鳥画の第一人者である上村淳之画伯である。

■ 肉眼では識別しにくいが、第3扇の女性像の坡巾や、第6扇を除く各扇のここかしこに鳥毛の細片がわずかながら残っている。現存している鳥毛の細片は、非常に少ない上に極めて微細である。そのため、どの範囲まで貼られいたのか、また、どのように貼られていたのか明確に知ることはできない。しかし、女性像の顔や頸、襟の合わせ目から露出している胸先、両手、衣服の袖裏の部分だけは、彩色でもって絵画的に仕上げられ、その他は全て墨線で描かれている。きわめてまれではあるが、樹木の幹にも鳥毛の細片が付着している。そうしたことから、女性像の衣服から出ている身体の部分と衣服の袖裏を除いて、その他はすべて鳥毛が貼られていただろうと推測されている。

ヤマドリの羽根を貼り付けて復元作業(**)
■ 唐の時代、中宗の娘の安楽公主が、鳥の羽根で作った(くん)(スカート)を穿()いていたと「旧唐書」五行志に記されており、そうした衣装が流行して、鳥の羽根がほとんど取り尽くされてしまったとのことだ。そのため、鳥毛立女屏風は中国からの舶来品であろうと思われていた、しかし、中国では鳥の羽根を貼った絵画は見つかっていない。また、わずかに残っている鳥の羽根を分析すると、中国産の鳥ではなく、国産のヤマドリの羽根であることがわかった。さらに、下張りに奈良時代の年号が書かれていたことから、鳥毛立女屏風は我が国で描かれた作品であると判明した。

■ 昭和63年(1988)、上村画伯は当時教授としてつとめていた京都市美術大学の学生たちの協力を得て、樹下美人図の衣装の模様に合わせて、ヤマドリ羽根を切り取り、一枚一枚丁寧に糊で貼りつけていかれた。屏風の一扇に使ったヤマドリの羽根はおよそ1000枚、完成には一ヶ月を要した。復元された屏風を見ると、女性の衣装が力強く盛り上がる羽根を、まるで毛皮を着ているように豪華に見えた。

復元された樹下美人図−1(**) 復元された樹下美人図−2(**)

■ ところが、上村画伯は完成品を見て、違和感を覚えたと言われる。羽根に光沢がありぎらぎら光っていて、女性の衣装が強烈な印象を与えるため、近くにおいて日常使う屏風としては落ち着かない、と感じられたようだ。そうすると、何故このような屏風を作ったのかという疑問が湧いてくる。

■ 考えられる可能性としては、天平勝宝4年(752)4月に行われた東大寺の大仏開眼供養会の準備である。開眼供養に合わせて海外から多くの使者が招かれたが、そうした客人をもてなす宿舎の居間などに飾られたのでは、との推測がある。当時作られたのは「鳥毛立女屏風」だけではない。正倉院宝物の中には、やはり鳥の羽根を使った「鳥毛篆書屏風」も残っている。「鳥毛篆書屏風」とは、君主座右の格言を、鳥毛貼りの篆書と緑青か丹の楷書とで交互に記した屏風で、6扇から構成されている。

鳥毛立女屏風の復元イメージ(**) 鳥毛篆書屏風(第一扇、第二扇)

■ 世界でも類を見ない高い技術力と表現力を備えていたこれらの屏風は、世界の冠たる唐の文化にあこがれて、その文化に追いつこうとする我が国のかっての情熱を、今に伝えているとも言える。


【参考】第66回正倉院展図録、(*) 同図録より転載 (**) NHKのEテレの番組「日曜美術館」からコピー

2014/11/10作成 by pancho_de_ohsei
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