平成26年(2014)10月22日

高尾山古墳:古墳出現期前後に駿河で築かれた前方後方墳

高尾山古墳の発掘調査

破壊直前で待ったがかかった古墳出現期の高尾山古墳

高尾山古墳の所在地
■ 静岡県沼津市の東熊堂(ひがしくまんどう)という所に、わずか6年前の平成20年(2008年)に発見された墳丘長62mの前方後方墳がある。当初は辻畑古墳と呼ばれていたようだが、なぜだか最近は高尾山古墳と改称されている。発見されたのは最近だが、畿内から遠く離れた駿河にあって、造られたのは西暦230年頃まで遡るとされ、わが国の国家形成の過程を解明する上で大きな意味を持つ古墳である。そのため、現在この古墳の築造時期を巡って、研究者の関心を集めている。

■ 高尾山古墳は、駿河湾に近い丘陵の先端に位置する高さ4mほどの小山の上に築かれていた。小山は、頂上に立てば沼津の市街地が一望でき、地元では「高尾山」の名で親しまれて来た。その場所は、東西に走る東海道新幹線と国道一号線との中間地点で、国道1号線の「江原公園交差点」とは目と鼻の先の距離にある。

■ 古墳発見の契機となったのは、沼津市の中心部と、東名沼津インターチェンジ・国道246号方面を結ぶ都市計画道路沼津南一色線の設置が具体化したことである。高尾山はこの道路の建設予定地内に位置しており、小山の上には熊野神社と穂見(ほづみ)神社という2つの神社が鎮座していた。そこで、平成20年(2008年)にこれらの神社は東の隣接地に移された。そして、その跡地を整地する段階になって、跡地の地下から古墳の遺構が見つかった。そのため、道路建設を一時中断して、平成20年度から翌年にかけて沼津市教育委員会が緊急の発掘調査を実施した。

発掘調査時の様子

高尾山古墳の想定図と規模
■ 市教育委員会が平成24年にまとめrた調査報告書によると、さまざまな興味深いことが分かる。先ず、高尾山古墳の規模だが、実測によって古墳は全長62.178mの前方後方墳であることが分かった。前方部の長さは30.768m、後方部は31.410mとほぼ同じ長さであり、くびれ部の幅幅は9.717mだった。また、古墳をの周囲に幅8〜9mの周溝が巡らされており、周溝の底から墳頂までの高さは4.679mだった。

■ 後方部の中心では埋葬施設が確認された。木棺や大量の朱が見つかり、棺の中には銅鏡1枚、勾玉1点、鉄槍2点、鉄鏃32点、やりがんな1点が納められていた。周溝やその周囲からは幅広い年代の土器が見つかっており、古墳築造後も長期間にわたって祭祀(宗教的儀式)が行われていたと推測されている。これらの土器は、地元産の形式以外に、北陸や東海西部、近江(滋賀県)、関東などの土器が見つかっているが、畿内(奈良県)の物は見つかっていない。  

主体部遺物出土状況
■ 出土土器の中で特に注目されたのは、周溝の一画から出土した高杯である。この土器は、濃尾平野で西暦200〜230年頃盛んに造られた廻間(はさま)U式と呼ばれる型式の高杯で、230年代の物と見られている。

■ 棺の周辺からは、同年代ごろの型式と見られるパレススタイル壺も発見されている。パレススタイル壺とは球形の胴部に、横に大きく開いた口縁部がつく形をしていて、赤彩や文様によって華やかな装飾がなされている弥生時代後期の土器である。故浜田耕作氏は、このように飾られた土器はギリシャ陶器の中で宮廷(パレス)から出土するものの華やかさに匹敵するとして、「パレース式」と呼んだ。

パレススタイル壺(例) 鉄鏃

■ ところが、棺に納められていた鉄鏃の一部に、矢が抜けないよう「逆刺(かえ)り」の細工が施された当時としては最新式の鉄鏃が含まれており、その形状を分析すると、奈良県のホケノ山古墳や長野県松本市の弘法山古墳で出土した鉄鏃よりも後の時代のものであることが判明した。よく知られているように、ホケノ山古墳は西暦250年の少し前ごろ、弘法山古墳は250年以降に築かれたと考えられている古墳だ。

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ホケノ山古墳実測図
■ したがって、この古墳の築造時期に関して専門家の意見は割れ、報告書は二つの見方を示している。周溝から発見された高杯の型式などから見て三世紀前半、具体的には230年頃と推定する説と、鉄鏃の型式などから見てもう少し新しく250年頃と推定する説である。後者の場合、周溝から出土した廻間U式の高杯は、古墳築造以前に存在した集落のもので、古墳に直接関連するものではないと見なしている。

■ 発掘調査報告書が、古墳の築造時期を特定せずに異なった説を併記するのは珍しい。両説の年代差はわずか数十年にすぎないが、古墳の持つ意味は相当異なってくる。250年頃の築造なら、邪馬台国の女王・卑弥呼の墓とされる箸墓古墳とほぼ同時期に築造された可能性が高くなる。逆に230年頃なら、畿内で「纏向形前方後円墳」が造られていたころ、駿河では整った形の前方後方墳が造られたことになる。

箸墓古墳の実測図
箸墓古墳の実測図
■ 230年説を推しておられるのは、愛知県埋蔵文化財センターの赤塚次郎氏である。赤塚氏は『魏志倭人伝』で邪馬台国に対抗する国として描かれている狗奴(くな)が東海地方にあったと提唱しておられ、今回の報告書の中でも高尾山古墳とこの東海地方の勢力との関係を強調しておられる。一方、纏向学研究センターの寺澤薫(てらさわかおる)氏は、高尾山古墳の全長と各部の長さの比のバランスが纏向古墳群の比と同じ点を指摘し、ヤマト地方の勢力の影響を受けているとして、築造年代を260〜270年頃と見ておられる。

■ こうした数十年の年代差をどう考えたら良いのか。一つの仮説が出された。発見された埋葬施設に被葬者が埋葬されたのが250年頃ならば、墳丘内に230年頃造られた別の埋葬施設もあるのではないか。つまり、築造当時埋葬された被葬者から20年後に別の被葬者が追葬されたのであれば、年代差の矛盾は説明がつく。そこで、市教育委員は今年の5月15日から2ヶ月間、主体部を中心に幅1m、深さ2mの溝を計7本試掘して、追加試掘調査を実施した。調査の目的は、古墳の年代決定のための根拠を得ることと、墳丘内に別の埋葬施設があるか検証することに置かれた。

墳丘の土層堆積状況
■ 8月27日、市教育委員は定例記者会見を行い、試掘調査の結果を次のように発表した。

・墳丘は、原地形を2mほど削平にしたのち、4mほど盛り土・版築によって構成されている。
・墳丘内から大量に出土した土器(約2000点)に、西暦230年より古い年代のものはなかった。
・古墳の主体部から出土した遺物から、古墳へ埋葬されたのは、西暦250年頃と判断できる。また、主体部から西暦230年頃の土器も出土しているが、これは埋葬時混入した可能性が高い。
・別の主体部(埋葬施設)が墳丘内に存在する可能性は少なくなった。

■ そして、墳丘から出土した2千点の土器は230年ごろのものが大半で、それ以前のものが見つかっていないことから、墳丘の築造時期は同年ごろと判断した。埋葬時期は副葬品として250年ごろの鉄製のやじりが見つかっていることから、同年ごろとした。つまり、この地域を支配していた一族の族長は、死後に自分が眠る奥津城を230年頃に築造させ、それから20年後にこの墓に埋葬されたと、結論づけた。

■ こうした結論に対して、最初の発掘調査を指導した愛知県埋蔵文化財センターの赤塚次郎氏は、「築造の途中で造営をいったんやめて、改めて被葬者の木棺を納める主体部を作ることになり、不自然」と指摘し、「むしろ、埋葬時期の根拠にした鉄鏃の年代を見直した方が良いのでは」と疑問を投げかけているという。

古墳の手前で工事が凍結されている沼津南一色線
■ 高尾山古墳が230年頃の築造となると、長野県松本市の弘法山古墳と並ぶ東日本最古最大規模の貴重な古墳と考えられる。そのため、道路と古墳が共存出来る方法を考えていただきたいとの要望が市に出されている。高尾山古墳の北側まで、すで道路が建設されている。市は現在、道路建設を凍結しており、今後の方針は庁内で検討することになっているそうだ。果たして、国内最古級の前方後方墳である可能性が指摘されている貴重な古墳が保存されるかどうか注目が集まっている。


■ 筆者はこの古墳の築造時期に注目している。西暦230年と言えば、邪馬台国の女王・卑弥呼(ひみこ)が魏へ使節を派遣して、魏から親魏倭王の金印と銅鏡100枚を与えられたとされる景初3年(239)のわずか9年前のことである。さらに面白いことに、被葬者が埋葬されたのは、250年頃と推定されているが、250年と言えば、卑弥呼が死去する1年か2年後のことであり、まさに被葬者は卑弥呼と同時代を生き卑弥呼と前後して死去した人物ということになる。

■ 邪馬台国畿内論者は、邪馬台国の卑弥呼(ひみこ)を盟主と仰ぐ倭国連合の東に男王・卑弥弓呼(ひみくこ) が率いる狗奴国連合が存在し、両連合国が240年代に交戦状態に入ったと考えている。それが事実なら、この地方の豪族であった高尾山古墳の被葬者は、一族を率いて卑弥呼の軍と戦って戦死したのかもしれない。そして、一族の者たちは、無言の帰国となった族長の亡骸を盛大な葬送儀礼でこの墓に埋葬したのかもしれない。意外なところで、古代のロマンをかき立てる遺跡が見つかったものである。

【参考】2014年10月15日(水)付け読売新聞文化欄 「国家形成の時代像に一石」、
静岡県の遺跡・古墳・城跡ガイド(http://blog.livedoor.jp/shizuokak-izu/archives/4167615.html)、
沼津市定例記者会見発表3(平成26年8月27日)(http://www.city.numazu.shizuoka.jp/shisei/pr/interview/pdf/201408_3.pdf)

2014/10/22作成 by pancho_de_ohsei
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