平成26年(2014)9月29日

ヤマトタケル伝説:葛城に舞い降りた白鳥

葛城市歴史博物館 (撮影 2014/09/27)

『古事記』と『日本書紀』で異なるヤマトタケル伝説

特別展のチラシ
■ 葛城市歴史博物館は、葛城市制十周年を記念して本日から11月24日まで、第15回特別展「葛城とマヤトタケル白鳥伝説」を開催する。葛城地方と古代の英雄ヤマトタケルとは無縁ではない。御所市冨田にはヤマトタケルの白鳥陵の一つとされている琴弾原(ことひきがはら)白鳥陵がある。

■ 特別展のサブタイトルとして「古代人がのこした鳥の造形」となっているように、鳥が死者の霊魂の運び手と捉えた古墳時代人の心象風景に迫る企画である。弥生時代から古墳時代にかけて、様々な鳥の形をした埴輪が見つかっている。この特別展では、当時の人々が鳥に対してどの様な思いを持っていたのかを開明してくれるという。興味深いテーマなので、特別展初日から訪れることにした。

■ 古代の英雄ヤマトタケルの物語は、現存する最古の歴史書とされる『古事記』にも『日本書紀』にも記述されている。『古事記』ではヤマトタケルを倭建命(やまとたけるのみこと)、『日本書紀』は日本武尊(やまとたけるのみこと)と表記しているが、彼の武勇伝は日本人なら一度は耳にしたことがあるはずだ。

■ その概略は、第12代景行天皇の皇子としして生まれ、父の命を受けて九州へ遠征して熊襲(くまそ)を平定し、さらに東国へ遠征して蝦夷(えみし)をはじめ天皇に従わない勢力を平定する。その帰路、病を得て故郷の大和に戻ることなく葬られた後、その身は白鳥に転じて空を飛び、最後は空高く飛び去ったとされている。

■ ところが、『古事記』と『日本書紀』ではその物語は微妙に食い違っている。研究者は『古事記』の物語が原型に近く、『日本書紀』はそれを下地にして一定の立場から書き直したと推定している。まずは、特別展の最初のブース「ヤマトタケルと白鳥伝説」で示された両者の違いを示しておこう。

『古事記』が伝えるヤマトタケル伝説

『古事記』におけるヤマトタケルの経路(*)
■ 景行天皇の三男として生まれたたヤマトタケルは、幼名を小碓命(おうすのみこと)と言ったが、度を越す乱暴者だった。兄の大碓命(おほうすのみこと)の肢体をもいでムシロに包み投げ捨てたという逸話が残っている。父の景行天皇はその性格を恐れて遠ざけるため、九州の熊襲建(くまそたける)兄弟の征討を命じたとされている。そこで、小碓命は叔母の倭比売(やまとひめ)から衣服を授かり征討へと出発する。そして熊襲建兄弟が宴を開くと聞いて、叔母から授かった衣服を着て女装し熊襲建の館に侵入して兄弟を討ち果たす。その際、弟から「倭建命(やまとたけるのみこと)」と名乗るように言われ、以後ヤマトタケルと名乗るようになった。

■ 出雲の国では偽の刀を使って出雲建を騙して討ち果たして、大和に戻った。しかし、父はすぐさま東国遠征を申し渡す。伊勢神宮に参拝したヤマトタケルは叔母の倭比売命に再会し、矢継ぎ早に遠征を命じる父は、自分が死んでほしいと思っていると嘆く。倭比売命は草薙剣(くさなぎのつるぎ)を与え、さらにもしもの時使用するようにと御嚢(みふくろ)を渡す。

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ヤマトタケル(月岡芳年画)
■ その後、ヤマトタケルは尾張を経て数々の神を平定し相模国に至るが、国造(くにのみやつこ)に騙されて火攻めに会う。草薙剣で周辺の草をなぎ払い、御嚢の中にあった火打ち石で向かい火をつけて難を逃れる。さらに海路で走水海(はしりみずのうみ)(今の浦賀水道)を渡るとき神の妨害を受けるが、弟橘比売(おとたちばなひめ)の入水で神を鎮め上陸を果たす。

■ その後、蝦夷などを平定して、甲斐、科野(しなの)を経て尾張国に帰還する。そして、美夜受比売(みやずひめ)のもとに草薙剣を残して、近江の伊吹山の神の討伐に向かうが、途中で出会った白猪を山の神ではなくその使いと誤解したため、大雨を降らされ、病に倒れる。病身ながら三重を経て伊勢の能煩野(のぼの)にたどり着き、次の歌を詠んだ。
倭(やまと)は 国のまほろば たたなづく 青垣 山隠(やまこも)れる 倭しうるはし 注:『日本書紀』では、この歌は父の景行天皇が九州の熊襲征伐にでかけ日向国で読んだとされている。

■ やがて危篤に陥ったヤマトタケルは大和に帰ることなくその生涯を閉じる。皇子死亡の知らせを聞いて妃や皇子が駆けつけ墓を造るが、ヤマトタケルは白鳥となって飛び去る。白鳥を追いかけると、河内国の志幾(しき)に留まったので、再びそこに墓を築き白鳥陵と名付けた。その後、白鳥はその墓からも天空に向かって飛び去ったという。

『日本書紀』が伝えるヤマトタケル伝説

『『日本書紀』』におけるヤマトタケルの経路(*)
■ 景行天皇の息子として生まれた小碓命(おうすのみこと)は兄の大碓命(おほうすのみこと)と双子とされている。若い頃から力強く勇敢で逞しい皇子だった。父の景行天皇は景行12年から九州に遠征し、熊襲を平定して6年後に帰還したが、景行27年に再び九州で反乱が起きたので小碓命を九州に派遣した。i

■ 九州では、小碓命は反乱の主である川上梟帥(かわかみのたける)の宴に女装して潜り込み、これを討ち果たした。その際、川上梟帥が「日本武皇子(やまとたけるのみこと)」の名を送り、これがヤマトタケルと称するきっかけとなる。西征からの帰途、吉備や難波で荒ぶる神を討ち、翌年の2月大和に帰還した。

■ それから12年後の景行天皇40年6月、今度は東国で反乱が発生する。この乱を平定するために、ヤマトタケルは兄の大碓命を派遣することを進言するが、兄は恐れをなして逃亡してしまう。その結果、ヤマトタケルが再び東国へ出征することになる。

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ヤマトタケル(歌川国芳画)
■ その年の10月、大和を発ったヤマトタケルは途中伊勢神宮に参拝し、叔母の倭姫(やまとひめ)命と会い、草薙剣を授けられる。駿河に入ったところでだまし討ちにあい火攻めを受けるが自らも野に火を放ち向かい火して難を逃れる。相模に入った後、海路で上総を目指すが暴風雨に遭い進めなくなったところ、弟橘姫の入水という犠牲を払って上総に上陸する。そこから陸奥に入って蝦夷の反乱を治めた後、常陸を経由して甲斐に至る。

■ さらに北に転進して武蔵、上野、碓井峠を経て信濃に進んだ後、美濃を経由して尾張に入り、尾張氏の娘である宮簀媛(みやすひめ)を娶り、しばらく尾張に留まる。その滞在中に、近江の伊吹山に荒ぶる神がいることを知り、討伐に向かうが、大蛇の姿をした山の神を見抜けず、遭難し病を得る。苦しみながら尾張に戻ると伊勢に向かうが、伊勢の能煩野(のぼの)まで来たとき、病が悪化し、30歳で亡くなる。

■ 知らせを聞いた景行天皇は、群臣に命じて能煩野に墓を作りヤマトタケルを埋葬した。すると、ヤマトタケルは白鳥になり、墓 から出て大和を目指して飛び去る。群臣が棺を開いて中を確認すると衣服を残して亡骸は消えていたという。白鳥の行方を追わせたところ、大和の琴弾原(ことひきがはら)に留まっていたため、そこに墓を造った。白鳥はさらに飛翔して今度は河内の古市邑に留まったため、再び墓を造った。その後、白鳥は高く飛翔して天に上ったという。


上村松園作「日本武尊」
■ ヤマトタケルは実在の英雄だったのだろうか? そうではあるまい。古代においては、複数の人物の業績が一人の人間に仮託して英雄伝説として語り伝えられているケースが多い。ヤマトタケル伝説もその類いであろう。大和朝廷発展期に征討による王権支配の全国的拡大行動を 抽象・集約させた架空の人物像であろうと言われている。だが『古事記』の完成は712年、『日本書紀』の完成は720年、両書の編纂時期はせいぜい8年の違いがあるに過ぎない。それなのに物語の大筋はほぼ一致しながら、異なっている箇所も多いのは何故だろうか。

■ 先ず、ヤマトタケルの人柄を『古事記』では兄を殺してしまうほど度を越す乱暴な皇子としているのに対して、『日本書紀』では力強く勇敢で逞しい皇子としている。『古事記』では熊襲征討から大和に帰還すると、すぐに父の景行天皇に東征を命じられるが、『日本書紀』では12年後のことである。西征や東征の経路も両書の間では微妙に異なる。死後白鳥となって飛翔するルートも違う。『古事記』では、伊勢の能煩野(のぼの)から河内国の志幾(しき)へ飛び立ったが、『日本書紀』では、途中でいったん琴弾原(ことひきがはら)に留まっている。

近つ飛鳥博物館に展示されている水鳥の埴輪
■ 実在した複数の人物の業績を一つの物語として整えられたのが、おそらく『古事記』のヤマトタケル物語だったのだろう。しかし、『日本書紀』編纂の時点で、さまざまな集団から異なる伝承の追加資料が出てきたのだろう。そこで、『古事記』の内容を下地にしながらも、編者が加筆・修正したものが『日本書紀』のヤマトタケル伝説だろうと推察されている。

■ いずれにせよ、ヤマトタケル伝説のキーワードは「白鳥」である。彼の肉体は墓に埋葬されたが、その霊魂は白鳥に姿を変えて空を飛翔し、やがて天空に上って行ったという。人の死後、鳥に姿を変え天高く飛び立つという考えは、東南アジアで広く見られる死生観である。我が国でも、古墳に立てられた水鳥形埴輪をその象徴としてとらえることができるという。

3つの白鳥陵

■ 『日本書紀』に記載されたヤマトタケル伝説に基づいて、宮内庁は次の3つの陵墓をヤマトタケルの墓として管理している。
●三重県亀山市田村町にある日本武尊能煩野墓
●奈良県御所市冨田にある日本武尊白鳥陵(琴弾原白鳥陵)
●大阪府羽曳野市軽里にある日本武尊白鳥陵

亀山市の日本武尊能煩野墓

■ 亀山市にある能煩野墓は、延長5年(927)年に完成した『延喜式』にも記載されている古墳である。その治定に関しては、江戸時代以降、地域内のいくつかの古墳が候補に挙げられてきた。本居宣長平田篤胤ら国学者は鈴鹿市にある全長92mの帆立貝式白鳥塚古墳を有力視していた。明治9年(1876)、当時の教務省がこの白鳥塚古墳をヤマトタケルの墓に治定した。しかし、3年後の明治12年(1879)、当時の宮内省が能煩野王塚古墳に治定替えを行っている。

■ 日本武尊能煩野墓は全長90mの前方後円墳で、4世紀末の築造と考えられている。本居宣長が著した『古事記伝』から竪穴式石室の可能性が指摘されている。

羽曳野市の日本武尊白鳥陵

■ 宮内庁が日本武尊白鳥陵として管理する羽曳野市の軽里大塚古墳(前の山古墳)は、前方部を西に向けて横たわる墳丘長190mの前方後円墳である。5世紀後葉に築造された古墳で、墳丘は三段築成、くびれ部両側に造出しを備えている。この古墳の大きな特徴は、後円部の直径を1とすると、前方部の幅が1.5倍もあり、いわゆる前方部を大きく開いていることだ。さらに、高さも前方部が後円部を3mも凌駕していて、古墳時代後期の前方後円墳の特徴を備えている。

■ 『白鳥神社縁起』によると、白鳥と化したヤマトタケルはその後、西方の埴生の丘の上を羽を曳くがごとく飛びさり、和泉の大鳥にとどまり、その後天高く飛び去ったという。この伝承に因んで、市の名称を「羽曳野」としたという。

御所市冨田にある日本武尊白鳥陵 掖上鑵子塚古墳

■ 白鳥が飛び立った先として、『日本書紀』に新たに追加されたのが「倭の琴弾原」で、明治16年に御所市冨田の地に治定され、宮内庁は琴弾原白鳥陵をヤマトタケルの墓として管理している。

掖上鑵子塚古墳出土の水鳥形埴輪(*)
■ しかし、現在の場所は古墳ではなく、自然丘陵である可能性もあり、近くにある掖上鑵子塚(わきがみかんすづか)古墳を候補とする考えもある。鑵子塚古墳は、室宮山古墳の南西約2キロのところに位置する全長約150mの前方後円墳で、5世紀後半の築造と推定されており、南葛城地域では、室宮山古墳に次いで大きい。墳丘の後円部は3段、前方部は2段で築成でされ、葺石が敷かれ埴輪列があったことが確認されている。現在は水田として利用されているが、鎌倉時代までは幅30mほどの周濠が巡らされていた。

■ すでに盗掘の被害にあっているが、後円部の竪穴式石室に長持形石棺を安置していたと思われる。水鳥形埴輪が見つかっている 。

考古学が明らかにした鳥形遺物が象徴する古代人の宗教観

雄鶏の埴輪(*)
■ 我々の肉体には魂が宿っているとされている。肉体は言わば仮の宿で、魂が宿ることで生命を得、魂が去ることで死を迎えるという。したがって魂はどこから来て、何処へ行くのかという永遠の問いを、人類はその誕生以来問い続けている。仏教は「六道輪廻」を説く。六道輪廻によって人間の魂は永遠に不滅であるとされている。だが、仏教が我が国に伝来したのは、せいぜい1500年前の古墳時代後期のことだ。それ以前の古代人は、人が死ぬと霊魂は肉体を離れて鳥になるか、あるいは鳥に乗ってあの世へ行くと考えていたようだ。そうした宗教観を今に伝えているのがヤマトタケル伝説である。だが、鳥が霊魂の運び屋と認識されるようになったのはいつごろだろうか。

特別展の会場
■ 特別展の展示は、1.ヤマトタケルと白鳥伝説、2.鳥のモチーフの出現、3.葬送の鳥、4.暮らしと鳥、の4部構成になっていた。最初のブースでは、上記のような記紀におけるヤマトタケルと白鳥伝説の差異を解説していた。考古学の発掘調査では、鳥を題材にしたさまざまな遺物が発見されている。しかし、古墳時代とそれ以前とでは、鳥の扱いは異なるという。

■ 鳥を題材にした造形の出現は縄文時代までさかのぼる。だが、約1万年続く縄文時代に鳥を特別視していたことを示す遺物は発見されていない。鳥獣は単なる食料として扱われていたようだ。ところが弥生時代になると、鳥を題材にした造形がその数を増す。稲作を育んだ大陸の思想が持ち込まれたためだとされている。

神戸市の桜ケ丘神岡5号墳出土の銅鐸に描かれた鳥(*)
■ 例えば、銅鐸には、稲の害虫であるカマキリや、トンボ、カエルといった小動物を駆除するサギやツルの姿が描かれている。サギやツル、あるいはコウノトリなどの鳥類は、弥生時代の人々にとって稲の豊かな実りをもたらす存在としてとらえられていたのだろう。また、ある時期には鳥を穀物に宿る恵みの霊である穀霊の運搬者、またはその化身として理解されていたことが、各地の風土記の記述からも伺い知ることができる。

唐子・鍵考古学ミュージアムに
飾られた当時のシャーマンのイメージ
■ 弥生時代の遺跡から見つかった絵画土器には、翼やクチバシを持つ人物が描かれている例がある。その異形な姿から、人知を越えた存在と交信できるシャーマンを表現したものと思われる。鳥に扮したシャーマンは、東アジア各地で見られる基層文化で豊饒の一端を担っていた存在だったと推測されている。

■ 弥生時代の遺跡から、鳥をかたどった鳥形木製品が見つかることがある。木製品の胴体下部に穴が空けられているため、棒の先に取り付けて空中に高く掲げられていたものと思われる。大陸や朝鮮半島では「鳥竿(とりざお)」と呼ばれ、ムラの入口などに立てられ、良くないものの進入を防いだとされている。鳥形木製品も集落の周辺部分から見つかることが多く、「鳥竿」と同じ目的で立てられていたのかもしれない。

高取町の市尾墓山古墳から出土した鳥形木製品
■ ただし、我が国ではムラの入口ではなく、弥生時代の方形周溝墓の溝の中から出土する場合もある。鳥形木製品は葬送に伴って使用されたことを伺わせている。古墳時代になって顕著になる死者と鳥を結びつける考え方が、この頃からすでに萌芽していたとする見方がある。

■ 古墳時代になると、鶏を表す鳥形木製品が増えてくる。しかも雄鶏の木製品である。記紀に語られている「天の岩屋戸」神話では、鶏が「常世(とこよ)の長鳴鳥」として岩屋戸に隠れたアマテラスを呼び出す役割を果たしている。常世とは現世に対するあの世のことであり、夜の世界である。長鳴き声によって朝の到来を告げる鶏は、昼夜を分かつ鳥であり、転じて世界の新生を告げる霊鳥と見なされたのであろう。太陽神アマテラスを岩屋戸から呼び出すには、夜明けを告げる鶏の存在が大きかったにちがいない。

壁画古墳に描かれた鳥船(左:珍敷塚古墳、右:鳥船塚古墳)(*)
■ 古墳の壁画や古墳を飾った埴輪の中に、鳥と船を組み合わせた鳥船が描かれているものがある。天理市の東殿塚古墳から出土した埴輪には三艘の船が描かれているが、そのうちの二艘の船の舳先に鳥が止まっている。その姿が死者の国へ導く水先案内のように見え、これらの鳥船は葬送の船であると解釈されている。福岡県うきは市の珍敷塚古墳鳥船塚古墳は6世紀後半の絵画古墳だが、横穴式石室の壁に鳥船が描かれている。

佐味田宝塚古墳出土の家屋文鏡(*)
■奈良県北葛城郡河合町の佐味田宝塚古墳は4世紀末に築かれた全長111.5mの前方後円墳だが、この古墳から出土した鏡には四棟の家屋が描かれている。当時の建物の様子を知る手がかりとなり、家屋文鏡として知られている鏡だ。興味深いのは、(きぬがさ)が掲げられた入母屋造りの高床建物(A棟)の屋根には鳥の姿がないが、竪穴住居と思える建物(B棟)、入母屋造りで平屋の建物(C棟)、および切妻造りで高床の建物(D棟)の屋根には、それぞれ鳥が止まっている。鳥は魂の運び手と思われ、鳥が止まっている家は、その家に祖霊などが宿っていると考えられている。鳥が止まっていない建物は、祖霊を引き継いだ現役の首長の居館を表しているのかもしれない。

津堂山古墳出土の水鳥形埴輪(*)
■ 4世紀中頃になると、鳥の埴輪が登場してくる。初期の鳥形埴輪はほとんどが雄鶏だが、古墳時代前期末から中期になると鶏形埴輪に引き継いで水鳥形埴輪が作られるようになる。ヤマトタケル伝説に示されるように、水鳥は古墳に葬られた人物の魂の運び手を象徴していると解釈されている。藤井寺市の津堂山古墳の周濠に設けられた島状遺構からは、水鳥形埴輪の初現とされる三体の埴輪が見つかっている。三体のうち少なくとも二体は、白鳥をモデルに作られたのではないかと考えられている。

■ ちなみに津堂山古墳は4世紀末に築造された全長208mの前方後円墳である。しかも、専門家の中には、この古墳が日本武尊白鳥陵ではないかと考えている人もいる。そうであれば、白鳥伝説に彩られたヤマトタケル物語の成立も4世紀末ころと推測することはできないだろうか?

【参考】(*) 特別展の図録より転記

2014/09/28作成 by pancho_de_ohsei
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