橿原日記 平成26年(2014)9月19日

築城から400年を経て姿を現した郡山城の「幻の天守」

郡山城の石垣から近鉄電車の線路に向かって枝葉を垂れるしだれ糸桜

 郡山城の天守台の発掘調査で天守の礎石が出土

発掘調査中の天守台(*)
■ 奈良県大和郡山市のシンボルである郡山城の天守台は、城郭の中心部である本丸の北端部に位置している。ここに登れば、城下町や奈良盆地を広く見渡すことができ、観光スポットになっている。天守台を支えているのは自然石による野面積みだが、最近その石垣が膨らんできて、崩落の恐れがでてきた。天守台に安全に登り景観を眺望できるために、市の教育委員会は5カ年計画で天守台展望施設整備事業を現在実施している。平成25年度から測量と発掘調査を行い、平成29年3月までに工事の完成を目指している。この期間は残念ながら天守台付近へは立ち入れない。

■ 市教委は今まで天守台と南東に隣接する付櫓(つけやぐら)の一部を調査してきたが、去る9月12日、発掘調査中の天守台から天守の礎石が見つかったとマスコミに公表した。天守台では柱の礎石や礎石の下に敷く根石が井形状に残っていた。これらの石材には多くの仏や石塔が転用されていたことも判明した。郡山城の天守は長らく「幻の天守」と呼ばれてきた。その実体が分からず、赤穂城や明石城のように天守台はあっても、天守が築かれなかった城もあるためだ。

発掘調査中の天守台(朝日新聞より)
■ 現在の郡山城の骨格を築いたのは、天正13年(1585)に姫路から郡山に国替えとなった大納言豊臣秀長(とよとみひでなが)だったとされている。秀長はそれまで筒井順慶(つついじゅんけい)の居城だった郡山城に移ると、秀吉に次ぐ権勢No.2の居城にふさわしい城に拡張すべく大々的な普請を行った。しかし、その城郭も増田長盛(ましたながもり)が城主だった文禄5年(1596)9月に京都の伏見付近を震源とする大地震で、天守をはじめ(やぐら)などが破壊してしまったという。その後天守を新しく再構築したという記録はない。「幻の天守」と言われる所以である。

■ 一方、記録は少ないが、天守閣が実在したとする説もある。江戸初期の大工技術書『愚子見記(ぐしけんき)』には、関ヶ原の戦いの後、郡山城は廃城となり、天守が二条城に移されたという記述があるためだ。その二条城の天守はその後淀城に移されたとする古文書も存在する。現存する淀城の絵図には、5重の天守が描かれており、郡山城の天守も5重だった可能性が指摘されている。

発掘調査区全景(*)
■ 天守台の標高は約80m、南北18m、東西15〜16mの広さがある。天守台の上に立てば、7キロ離れた若草山や東大寺の大仏殿を望むことができる。

■ 発掘調査を開始する前の天守台は、上面が土だけだった。そのため、遺構などは残っていないのでは、と悲観的な見方が強かった。ところが10cm掘り進むと巨大な石材が顔を出した。石材はその後も続々と出土し、合計で23個の礎石見つかった。すべて天守を支えた礎石で、東西3列、南北2列にわたって建物を支えていたようだ。見つかった礎石を調べると、天守の1階は中心となる東西6.6m、南北8.8mの身舎(もや)を、、「武者走り」と呼ばれる通路が四角く囲む構造だったことが判明した。

■ 礎石以外にも、豊臣家に近い城のみに使用が許された金箔の軒丸瓦の破片や、秀吉が京都に建設した聚楽第や大阪城と同じ型を使った瓦なども出土している。 これらの出土瓦によって、この場所には16世紀末に建設された金箔の瓦を葺いた壮麗な建物があったこと確認された。しかも礎石群には建物の改修した跡がない。

金箔の一部が残っていた軒丸瓦(左)と拡大写真(右)
■ 天守が建てられた天守台は、本丸の地表から約8.5mの高さにあり、その上に5重の天守があったとすると、高さは20mはあったと思われる、周辺が樹木で被われていなかった当事は、奈良盆地全体を一望できたはずである。城主だった豊臣秀長と豊臣政権との近さを改めて浮かび上がらせる天守が聳えていたのは、どうやら事実のようだ。

■ 天守とは、戦国時代以降の城の象徴的存在となった建造物で、安土桃山時代の末には最終防衛拠点として位置づけられ、本丸に築くことが多かった。天守閣という呼称は、明治時代前後から使われるようになった俗称である。建築学の学術用語としては「天守」が正しい。

大阪城と同笵の軒丸瓦・軒平瓦 聚楽第と類似の軒平瓦

■ 今日見られる本格的な5重以上の天守は、織田信長が天正7年(1579)に建造した安土城の天守が最初だと言われている。豊臣秀吉によって大坂城・伏見城と相次いで豪華な天守を持つ城郭が造営されるが、徳川家康は天守の高さを制限し、5重以上の天守は国持ちの有力大名に限られた。現在各地に残る天守は江戸時代のものであり、安土桃山時代に築かれた城の天守については、ほとんど分かっていない。郡山城は安土城と関ヶ原以降の城の中間点に位置し、当事の城の構造を知る基準となるとされ、郡山城の天守跡が発見されたことの意義は大きい。

 大和郡山城の築城の歴史を追う

満開の頃の糸桜
■ 大和郡山市の郡山城は、県内でも有数の桜の名所である。約3000本はあるとされる桜は、日本の桜100選に選ばれており、毎年、桜の季節に催される「郡山お城まつり」は、多くの見学者で賑わう。郡山城の石垣から近鉄電車の線路に向かって枝葉を垂れるしだれ糸桜は、「郡山城の桜」のシンボル的存在で、見事な花を咲かせる。電車の座席から車窓越しにその見事な枝振りを眺めるのは楽しい。

■ 戦国時代の郡山市域は「郡山衆」と呼ばれる土豪たちが館を構えて勢力争いを繰り返していた。郡山城が初めて築かれたのは、天正2年(1574)だったようだ。知行地6千石(1万7千石とも)の郡山宮内殿(小田切宮内少輔春政)が、斜面の土をカキアゲて土塁を設けた土塁と堀だけの「カキアゲ城」を築き、本丸の他に二の丸に家中の住居を置いたとされている。

筒井順慶画像
■ その頃、筒井順慶(1549 - 1584)は筒井城を居城としていた。大和国の戦国大名・筒井順昭の子として生まれた順慶は、父が病死したため、わずか2歳で家督を継ぎ、宿敵松永久秀との戦闘に明け暮れる日々を過ごしていた。その後、時の天下人織田信長の支援により大和武士の棟梁として天正8年(1580)11月、筒井城から郡山城に移っている。

■ 天正9年(1581)、筒井順慶は小田切が築いた郡山城の拡張工事を開始し、天正11年(1583)4月には、三重の天守が完成させた。しかし、天正12年(1584)8月、順慶は36歳の若さで死去し、養子の四郎定次が筒井家を次いだ。その定次も天正13年(1585)閏8月に伊賀上野(20万石)へ国替となる。

■ 代わって姫路から郡山に入ったのは、大和、紀伊、和泉三か国で100万石余を領する大納言豊臣秀長だった。大坂城を中心とする秀吉政権の支配基盤を固める上で、大和は東に位置する要衝である。秀吉は信の置ける一族を置く必要があった。秀長は豊臣秀吉の異父弟である。さらに、この国替えで秀吉は興福寺などの寺社勢力と筒井氏の切り離しを意図したとされている。

豊臣秀長像
■ 豊臣秀長は、天正14年(1586)から郡山城の改修を開始し、現在の郡山城の骨格を築いたとされている。本丸、二の丸の堀、石垣などの普請が着々と進み、天正15年(1587)には根来寺の大門を郡山城の城門に移している。天正16年(1588)には、奈良の郷民に命じて春日山内の水谷川から「ごろた石」を運ばせ、また寺々から石を供出させている。

■ 同じ年、秀長は秀吉の命で多武峰(とうのみね)の堂舎を郡山に移転させたが、その時多武峰の桜も城内に移したとされている。その後、享保9年(1724)に柳沢吉里(やなぎさわよしさと)が国替えで甲府から郡山に移ったとき、多くの桜を補植した。その時以来、城の桜は藩士や町民の楽しみとなり、「御殿桜」の名で親しまれたという。

■ 天正19年(1591)1月、秀長は郡山城内で病死した。享年52だった。男子がいなかったため、家督は養嗣子になっていた甥の秀保が継いだ。文禄4年(1595)5月、秀保は病気療養のために大和国十津川へ赴いたが、病状が悪化して死ぬと、豊臣五奉行の一人、増田長盛(ましたながもり)が22万3千石の領主として入城した。翌文禄5年(1596)、長盛は城下町全域を包み込む外廻り惣堀の普請を行なった。しかし、その年の9月に京都の伏見付近を震源とする大地震で天守をはじめ櫓などが破壊したという。

■ 慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いで豊臣方が敗れると、長盛は除封となり、郡山城は一時荒廃した時期があった。慶長20年(1615)以降、水野勝成や松平忠明、本多正勝といった徳川の譜代大名が次々と郡山城に入り、領主が目まぐるしく変わった。しかし、上記のように柳沢吉里が享保9年(1724)に将軍吉宗の命を受け大和、近江、河内、伊勢の4カ国、15万石余りの大名として郡山城主となってからは、柳沢家が明治維新まで藩主として続いた。

郡山城総曲輪 郡山城の中心部と天守台(*)

■ 柳沢吉里は、幕府側用人として知られる柳沢吉保の息子だった。父譲りの学問好きで、郡山藩政においても基礎を固め、名君と評されている。彼は大和における経済・文化の中心地として郡山繁栄の礎を築いた。郡山に養蚕を持ち込み奨励し、経済を振興させた。また、趣味で飼っていた金魚も持ち込んだことから、この地での金魚養殖が始められるようになった。幕末の頃には下級藩士の副業として、明治維新後には職録を失った藩士や農家の副業として金魚養殖がさかんに行われるようになった。

郡山城の追手向櫓
■ 柳沢家は明治維新までの147年間、6代にわたって郡山藩政を担った。安政5年(1858)12月、二ノ丸付近から出火し、住居関係の建物群はすべて焼失する大火にみまわれた。柳沢藩は文久元年(1861)に再建に着手するが、明治3年(1870)今後城の修理を行わないことを出願して政府に聴許され、明治6年(1873)郡山城は破却された。このとき櫓・門・塀などの建築物は入札によって売却されて運び去られたものの、石垣や堀の多くは今も往時の姿を留めている。昭和55年(1980)に築城400年を記念し、追手門、追手向櫓(おうてむかいやぐら)、東隅櫓、多聞櫓が復元され、現在は郡山城址公園となっている。

 本日の現地説明会に参加

発掘現場を見るために順番を待つ見学者たち

■ 本日と明日の二日間、午前10時から午後4時まで1時間ごとに説明会が開かれるというので、本日の11時からの説明会に参加すべくアパートを出た。発掘が行われている天守台の上は16 x 18mの狭い範囲なので、一度に大勢の見学者を招き入れることはできない。見ていると、20人ほどを一区切りとして、前の組の見学が終わったら天守台の石段から登ってくるように指示している。説明会は石段の下の広場で、ボードに張り出された2枚イラストを前に行われた。一枚は調査区全景図、もう一枚は天守台模式図だった。

天守台模式図(*) 天守礎石・根石配置図(*)

■ 説明員の解説によると、天守台では柱の礎石や礎石の下に敷く根石が、東西方向に3列、南北方向に2列が直交する井形状に残っていた。東西列の礎石は大型(0.9〜1.2m)と小型(0.6〜0.8mの石が交互に置かれ、一列あたり12〜13石を据えていたようだ。実際に見つかった礎石は合計で23個だが、礎石が抜かれた後には、50cm前後の石を円形または方形に敷き詰めた根石が残っていた。

発掘現場の様子

発掘現場の礎石・根石
逆さ地蔵
■ これらの礎石列の上に建物の土台となる木材を横向きに置き、その上に柱が建てられていたようだ。礎石の位置から建物を復元すると、天守1階は東西15m、南北2室に別れる身舎(もや)を中心に、「武者走り」と呼ばれる幅約4mの廊下を巡らし、南側に入口があったと想定できるという。

■ 今回の発掘調査では、天守の根石などに梵字が書かれた五輪塔の一部や石仏など寺院から運ばれた石材が多く出土した。その数は他の城郭に比べて異常に多い。戦国期の城は突貫工事で造っており、大和という土地柄では手近にある寺院の石塔などを転用することが多かったようだ。当事は墓に対する認識は現代とは違っていて、墓に霊魂が宿るとか定期的にお参りするといった概念はなかった。

■ 転用材として有名な「逆さ地蔵」が天守台の裏手、北側の石垣に組み込まれている。石組みの間から奥を覗き込むと、逆さになった状態で石の間に埋もれている地蔵を確認することができ、逆さ地蔵と呼ばれている。この天守は逆さ地蔵の祟りで大地震の際に倒壊したという俗説が残っているそうだ。

■ 天守の入口は南側に造られている。そうであれば、天守台の南側に設けられている石段からアクセスするのだろうと思っていたら、どうやら違うらしい。この石段は後世に築かれたもので、説明員の話によると、天守台へのアクセスは、南に築かれた付櫓(つけやぐら)を介して行われたという。

「元禄十五年郡山城修復絵図控」 拡大部分

■ 元禄15年(1702)に郡山城主の本田忠常が追手門石垣の張り出した部分を修復したいと願い出た願書に絵図が添付されていた。「元禄十五年郡山城修復絵図控」という。この図の天守台の低い段(=付櫓)中央部分に石垣の切れ目があり、また、付櫓から天守台につながる中央部分にも切れ目があり、通路を表しているようだ。

付櫓の調査区
■ 絵図によると、天守台は付櫓から入り、天守台本体の地下室(地階・穴蔵)へと進み、そこから階上に進む構造を取っていたと考えられる。確認のため約20平米の調査区を設けて調査したところ、付櫓地階に伴う南北方向の石垣2面を確認することができた。両面間の幅は約3m、地表面から地階の床面までは2.2m、石垣は55〜80cmの自然石の野面積みで、基底部から2〜3段が残っていたとのことだ。

■ そうあれば、付櫓の地階に降りて地下通路を通り、天守南面の入口に出てくることになるが、天守と付櫓の連絡部の構造と地階の形状は発掘調査を実施していないので不明とのことだ。現代の我々の感覚からすれば、なぜそのような複雑なアクセス方法を採用したのか理解に苦しむ。あるいは天守を最後の拠り所と見なして、外敵の容易なアクセスを阻止したかったのだろうか。


近鉄の観光特急「しまかぜ」

■ 今朝、郡山城の手前の踏切で近鉄の新しい観光特急「しまかぜ」を初めて見た。伊勢神宮の式年遷宮に合わせて、昨年3月から運行を開始した大阪・名古屋と伊勢志摩を結ぶ特急である。大阪難波駅、近鉄名古屋駅、賢島駅から水曜日を除く毎日1便しか運行していないとあって、デビュー以来大変な人気を呼んでいる。

■ 伊勢志摩の晴れやかな空をイメージして、車両はブルーを基調にカラーリング。先頭車両の6枚のガラスを用いた多面体のフロントデザインは、シャープさと躍動感を表現しているという。今年の10月10日からは京都発着の列車も運行することになっていると聞いていたが、その路線を走る試運転だったのだろうか。

【参考・引用文献】郡山城天守代発掘調査現地説明会資料、(*)左記資料より転記

2014/09/19作成 by pancho_de_ohsei
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