橿原日記 平成26年(2014)7月29日

倭国には「原倭国」と「新生倭国」の二つがあった!?

桜井市立図書館研修室で開催された第3回纏向学セミナー (撮影 2014/07/26)

東アジア世界における我が国の古称「倭国」に対する理解

■ 視界を広げて東アジアの視点から我が国を見た場合、我々日本人の祖先はかって「倭人と呼ばれ、倭人の住む日本列島は「倭国」と呼ばれていた。そのことは中国の史書から証明できる。

国宝「漢委奴国王」の金印
■ 中国の南北朝時代、南宋の范曄(はんよう、398 - 445)が元嘉9年(432年)頃『後漢書』を編纂したとされれている。その中に「建武中元二年、倭の奴国 奉貢朝賀す。使人自ら太夫と称す。倭国の極南界なり。光武、賜うに印綬を以てす」とある。建武中元二年は西暦57年、この年の正月、倭の奴国が朝賀の式に参列する使者を後漢の都洛陽に派遣してきたので、後漢の創始者光武帝・劉秀は冊封のしるしとして印綬を賜ったという。江戸時代の天明4年(1784)2月、博多湾に浮かぶ志賀島の(かな)の崎にある水田から甚兵衛という百姓が、「漢委奴国王(かんのわのなのこくおう)」と刻まれた金印を発見した。

■ さらに、『後漢書』東夷伝には、安帝永初元年、倭國王帥升等獻生口百六十人、願請見 (安帝の永初元年(107年、倭国王帥升(すいしょう)等が生口160人を献じ、謁見を請う)との記述がある。このように、古代の中国の諸王朝は当時日本列島にあった政治勢力、国家を指して倭国と呼んでいた。倭国自身も中国や朝鮮半島の諸国に対する呼称として7世紀頃まで倭国を国名として用いていた。ただし、倭国および倭国王の勢力範囲に関しては諸説ある。我が国が対外的な国号を「倭国」から「日本」に改めたのは7世紀後半になってからである。

伊都国があった辺り
■ 金印の「漢委奴国王」は「漢のイト国王」と読むことが可能である。考古学者の寺澤薫(てらさわかおる)氏は「委奴国」を「伊都国」と解し、当時の倭国は伊都国を中心とする北九州にあったとの説を出しておられる。また日本の太宰府天満宮に伝わる『翰苑』所引の『後漢書』には「倭面上国王帥升」とあり、北宋版『通典』にも「倭面土王帥升」とある。 帥升は倭国王ではなく倭の中の一部の地域の「面土国」の王だった可能性が高い。

■ 『魏志倭人伝 』によると、漢の時代には倭国は百余国に別れていたが、魏の時代には三十国に統合され、その中の邪馬台国の女王・卑弥呼が周辺諸国から共立されて倭国連合の王となったと記す。こうした文面から推して、当時の東アジア世界では、倭国には多くの部族国家が存在したが、それらの総称として倭国と呼ばれていたようだ。これらの国々が次第に統合されて3世紀には三十国の連合国家倭国を形成するようになった。その中心となる王都は「邪馬台国」に置かれた。

■ 邪馬台国は、2〜3世紀に日本列島に存在したとされる国の一つである。その所在地については、様々な場所が候補地として挙げられているが、最も有力な説は九州説と近畿説である。そのどちらなのかは、21世紀に入っても歴史学者の間で説が分かれていて決着を見ていない。

纒向遺跡の範囲
■ 邪馬台国畿内説の中では、桜井市の纏向遺跡を最有力な候補地として挙げる専門家が多い。しかし、倭国の存在は、3世紀半ばの壹與(いよ)の朝貢を最後に中国の史書から消え、150年近く後の義熙9年(413)に倭王讃が東晋に朝貢するまで倭国に関する記録はなくなる。このため日本の歴史で4世紀は「空白の世紀」と呼ばれている。しかし、倭王讃は、讃・珍・済・興・武と称される倭の五王の筆頭であり、応神または仁徳天皇に比定されている大王だ。応神・仁徳天皇の時代、現在の日本列島の大半はヤマト王権のもとに一つの国家として統一されていたと考えられている。そのため、畿内大和にあった纏向遺跡が倭王権誕生の地である見なすことも可能である。

■ ところが、纏向遺跡は自然発生的な弥生集落が発展して国の中心となったのではないことが、発掘調査によって判明している。人がほとんど住んでいなかった三輪山の山麓に、ある時を境に多くの人々が移り住んで都市国家とも言うべき王都を築いたと言うのだ。その時期は専門家によって2世紀半ば、2世紀末から3世紀初め、4世紀初めなど諸説がある。となると、それらの人々はどこから移り住んできたか問題となる。

■ よく知られているのが、邪馬台国東遷説である。『日本書紀』や『古事記』に記載された神武東征伝承を史実とするかどうかはともかく、白鳥庫吉や和辻哲郎ら戦前の歴史学者は、九州で成立した邪馬台国が大和に遷ったと唱えた。戦後は、歴史学および歴史教育の場から日本神話を資料として扱うことを忌避しているが、それでも東遷説は主に東京大学を中心に支持され発展し続けている。

■ その一方で、邪馬台国は近江を含む近畿圏で形成され、その後に大和の纏向に遷ったとする説を唱える専門家がいる。考古学者の森岡秀人氏(1952 - ) である。森岡氏は、倭国の誕生と形成過程の渦中に纏向遺跡をおいて理解するには、その前段の社会に占める近江を含む近畿圏が重心を持つ意味が大きいとされる。そして、倭国前半期の変化を再考するために、東遷以前の邪馬台国を「原倭国」と呼んで持論を展開されている。

森岡秀人氏の講演「原倭国の形成と纏向遺跡」

セミナーのチラシ
■ 去る7月26日、桜井市立図書館の円形埴輪をイメージした研修室で、第3回纏向学セミナーが午後1時半から2時間半にわたって開催された。チラシを見ると、前半は森岡秀人氏の講演「原倭国の形成と纏向遺跡」、後半が森岡氏と纏向学研究センター所長寺澤薫氏との対談が予定されていた。

■ チラシには、次のような講師のコメントが載っていた。
纏向遺跡が倭国の王都だったと見なすならば、纏向遺跡が築かれる前の段階に、近江を含む近畿圏に「原倭国」とでも称すべき勢力圏があったはずで、それがどのような社会だったかを明かにしたい
というのが講演の趣旨だった。

■ 森岡秀人氏は関西大学文学部卒業後、長く芦屋市教育委員会で文化財保護行政に尽力される一方で、精力的に考古学研究を推進してこられた。60歳を過ぎた現在は、日本文化財科学会評議員と纏向学研究センターの共同研究員を兼ねておられる。関西大学在学中は高松塚古墳の発掘調査に参加され、また佐原真氏と共に編年された弥生後期の土器年代は優れた業績として今でも有効である。

桜井市立図書館研修室
■ そうした高名な考古学者が提唱される「原倭国」とはどのような概念なのか。是非拝聴したくて、シンポジウムへの参加を申し込んだ。すでに定員に達していたので、申し込みは受け付けられなかったが、キャンセル待ちをして何とか会場に入ることができた。

■ ところが、受付で配布して貰った講演のレジメを見て驚いた。講演の要旨はA3用紙一枚にまとめられているすぎないが、参考資料や関係図面が15枚も付いている。あとで聞いた話では、森岡氏の講演ではこうした関係図面が多く添付されるので有名だそうだ。多くの図面を寄せ集めたため、ルーペが手元になければ図面の文字が読めない。わずか90分の講演でこんなに多くの図面を参照するはずがない。実際の公演中に参照された図面はそのうちの4〜5図にすぎなかった。

講演される森岡秀人氏

■ その上、講演の内容をまとめた要旨部分も活字が小さくて読みづらい。なんとか目を通して講演の内容をあらかじめ読み取っておこうと努力したが、途中で放棄した。条書きされた記述の内容は、本人の講演メモ以外の何者でもなく、講演の主旨を参加者に理解して貰いたいという配慮が全くなされていない。これは大変な講演を拝聴することになるな、と覚悟を決めた。

■ 講演が始まって、すぐに予感が的中した。高名な考古学者だが、正直言って話し下手である。話し方にメリハリがない上に、声がこもって聞きづらい。さらにマイクの使い方が下手だから、スピーカからの声が割れて、話の半分も理解できなかった、いや、聞き取れなかった。この種の講演会に参集してくる人々のほとんどは高齢者である。視覚や聴覚が若いときに比べてかなり衰えてきている年代である。プロの噺家に学べとまでは言わないが、今少し参加者の立場を理解した講演をされることをお勧めしたい。

■ レジメの内容も講演の内容も良く理解できなかったが、後半の対談で寺澤薫氏が質問形式で要領よく寺岡氏の話の内容をまとめていただいたので、その論旨の輪郭はおぼろげながら理解できた。すなわち、

● 『後漢書』に安帝の永初元年(107)に倭国王師升が後漢に朝貢したと記載されている点から、当時の東アジア世界では日本列島に「倭国」と呼ばれる国があったと認識されていたのは確実である。問題はその領域の範囲だが、紀元2世紀の段階では九州や近畿を含む西日本で、その東の限界は銅鐸が出土している静岡県の天竜川あたりまでだったであろう。
近江地域特有の近江系土器 (*1)
● 弥生時代の中期から後期にかけて、近江の野洲川流域に下之郷遺跡伊勢遺跡など巨大弥生集落が形成されている。この地方では、「受口状口縁」と呼ばれる独特な口縁部を持つ近江系土器を作っていたが、弥生時代後期にはこの土器が近畿一円のみならず、東海、北陸、北九州など全国各地に普及していた。したがって当時の倭国の中心は伊勢遺跡を祭場とする東近江にあり、原倭国体制とでもいうべき緩やかな部族国家連合が成立していたと見なすことができる。
● 2世紀の後半に倭国大乱があり、伊勢遺跡など近畿北部を支配していた邪馬台国の卑弥呼が周辺の国々から倭国連合の王に共立された。卑弥呼は個人名ではなく官職名だと思われるが、その卑弥呼が2世紀末に大和へ遷って、治世の後半は纏向の地で積極的に活動した。
● そこで、卑弥呼が倭国連合の王に共立されるまでの倭国を「原倭国」、大和の纏向遺跡へ移動した後の倭国を「新生倭国」と捉え、邪馬台国東遷はあくまで近畿圏内部の出来事と考えたい。

対談される寺澤薫氏
■ 参考までに付け加えると、寺澤氏は、永初元年(107)に後漢に朝貢した倭国王師升は伊都国王であり、当時の倭国は伊都国を中心としてせいぜい愛媛県あたりまでを含む北九州の政治勢力だったと見ておられる。そして、纏向遺跡を作ったのは、吉備地方の勢力を中心とする人々の集まりだったとされる。その時期は3世紀の初め頃で、纏向遺跡の成立時期は森岡氏の説より2〜30年後である。

守山市の国史跡下之郷(しものごう) 遺跡と伊勢(いせ) 遺跡を訪れる

野洲川べりから三上山を望む
■ 筆者は橿原のアパートから埼玉の自宅に戻るのに良く東海道新幹線を利用する。京都駅を出てしばらくすると、列車は近江最大の河川である野洲(やす)を渡るが、その際に右手の車窓を見ると、近江富士と呼ばれる海抜432mの三上山(みかみやま)が間近に迫っているのが見える。いつもは、672年の壬申の乱の際、村国男依(むらくにのおより)らの大海人(おおあま)軍がこのあたりで近江朝廷軍と戦って大勝したのだろうと想像している。

■ 列車が野洲川を渡る手前で左手の車窓を見ると、野洲川が形成した広大な沖積平野が琵琶湖の湖岸に向かって広がっている。今回の纏向学セミナーで森岡秀人氏の講演を聴いて、滋賀県守山市の野洲川左岸に営まれた弥生時代の集落遺跡群に興味が沸いた。付近一帯は、森岡氏の言う「原倭国」が存在した土地なのだ。

野洲川周辺の主な遺跡位置図(*1)
■ 近江地方の南部は、東日本と西日本の接点であり、また太平洋側と日本海側とを結ぶ交通の要衝に位置しているため、今も昔も地理的に重要な位置を占めている。守山市と野洲市の間を流れる野洲川は、有名な暴れ川である。有史以前からたび重なる氾濫を繰り返し、氾濫のたびごとに流域を沃野にしていった。琵琶湖畔に向かって広がる広大な沖積平野はそうした野洲川の氾濫で築かれた沃野だった。弥生時代にイネの水耕栽培技術を携えてこの地にやってきた渡来系の人々は、その沃野をうまく利用して水田耕作を営んだ。そのため、弥生時代の遺跡は、野洲川下流でも特に左岸の旧河道沿いに多く見られる。

■ 野洲川周辺に築かれた弥生時代の遺跡地図を見るとおもしろい。主な遺跡が南北に並び、しかも時代が下るに従って北から南に移動している。一番北の服部遺跡は、野洲川の河川改修工事で見つかったこの地域を代表する大規模な拠点集落である。縄文時代晩期から弥生時代前・中・後期、そして古墳時代にかけて継続的に発達を遂げた遺跡で、大規模な水田跡や集落跡、それに360基以上の方形周溝墓が見つかっている。

■ 弥生時代中期後半(紀元前2〜1世紀)になると、大規模な環濠集落である下之郷(しものごう)遺跡が出現する。東西330m、南北250mの楕円形をした環濠集落で、三条の濠が集落全体を囲んでいた。さらに、中期後半から後期前半にかけては、下之郷遺跡の周辺でも播磨田東(はりまだひがし)遺跡、二ノ畦・横枕(にのあぜ・よこまくら)遺跡・酒寺(さかでら)遺跡といった環濠集落が築かれている。。

■ 近畿地方の主な弥生遺跡は、同一場所に環濠集落を継続して展開しているのが一般的だ。だが、野洲川流域の上記の4つの環濠遺跡は少しずつ地点を移動している。すなわち、巨大環濠集落である下之郷遺跡が衰退した後、その後裔集落として、その近辺に残りの三つの集落が場所を変えて順に営まれたようだ。

■ 弥生時代後期(1世紀半ば)の倭国大乱から卑弥呼が倭の女王に共立された頃、琵琶湖南部の扇状地に大規模な伊勢遺跡が出現する。その規模は南北約450m、東西約700mを測り、弥生時代後期の近畿地方では奈良県の唐古・鍵遺跡と並ぶ最大クラスの集落遺跡である。しかも遺跡の中心には大型建物が計画的に配置されてて、「クニ」の中枢部をうかがわせる遺跡として、注目を集めている。

伊勢遺跡の棟持柱を持つ建物の復元
■ 伊勢遺跡から南西へ約1.3キロ離れた栗東市の下鈎(しもまがり)遺跡、および北西1.7キロに位置する守山市の下長(しもなが) 遺跡でも、弥生時代後期の独立棟持柱付き大型建物が見つかっている。伊勢遺跡をはじめとするこれらの遺跡群は、大規模な建物を中心に集落を形成する特徴を持っている。弥生時代後期に限定するならば、近畿地方の大型建物遺跡は野洲川流域のわずか2.5キロ四方の空間に集中しているのだ。そのため、纏向遺跡以前の邪馬台国時代の「クニ」の中枢部、すなわち原倭国の中心を構成していたと想定しても不思議ではない。

■ 本日、別件で京都に出かける用事があったので、守山まで足を伸ばして先日のセミナーで話題にされた下之郷遺跡と伊勢遺跡を訪れることにした。弥生時代の有名な遺跡だが、実際に訪れるのは今回が初めてである。

下之郷遺跡:"弥生のタイムカプセル”と称される弥生時代中期の大環濠集落

■ 下之郷遺跡は、滋賀県守山市下之郷町1−12−8に位置する弥生時代中期に築かれた大規模な環濠集落である。昭和55年(1980)に市の下水道工事に伴なう調査で発見され、その後守山教育委員会が数十次の発掘を行った結果、集落の周囲に幅広い環濠が3条、さらにその外周り数条の溝が巡らされていたことが判明した。その規模は東西約330m、南北約260mで、面積はおよそ7ヘクタールに及ぶ。この時代の環濠集落としては、滋賀県下で最大であり、全国でも屈指の規模を誇る。

■ 集落の中心地域からは、建物の主軸がほぼ南北軸にあたる独立した2棟の棟持柱建物の跡が見つかり、さらに整然と配置された弥生時代中期後葉(約2100年前)の5棟の建物跡とや井戸跡が出土が見つかっている。この時代の住居は竪穴式住居と呼ばれる半地下式の住居が一般的なのに、この遺跡からは竪穴住居は一棟も発見されていない。見つかったのは掘立柱建物や壁立式建物の跡ばかりである。

下之郷遺跡の全体図 (*2)
■ また、集落を巡る環濠や井戸からは土器に加えて多数の木製品や石製品が出土し、当時の暮らしの様子をうかがうことができる。溝の底が粘土質だったため、木製品などの保存状態がよく、当時の生活の様子をよく知ることができる。そのため、"弥生のカプセル”と称されるほど重要な遺跡として、平成14年に国の史跡に指定された。現在は遺跡の一部が下之郷史跡公園として整備されている。

■ 下之郷史跡公園にアクセスするバスの便としては、JR守山駅前から出ている小浜行きの近江鉄道バスが利用できる。「下之郷東」バス停で下車すれば、徒歩5分で到着できると聞いていた。ところが、バス停で時刻表を確認すると午前中に運行するバスの便はない。仕方なく駅前から炎天下の道を歩くことにした。駅前で所要時間を聞いたところ、30分くらいだろうとの事だったが、小生の足では40分を要した。

下之郷遺跡公園の環境保存施設

下之郷遺跡公園 (*3)
■ 下之郷遺跡公園は、環境保存施設の建物と、環濠の発掘調査を間近に見学できる環濠調査施設、それに復元環濠、体験水田などで構成されている。県道赤野井−守山線に面した環境保存施設は、今から2200年前の下之郷遺跡の様子を理解するための環濠の露出展示や、土器、木製品、石器類などの出土品が解説パネルと共に展示されている。

■ 室内に入り、下之郷遺跡の概要説明を説明員に請うと、まずビデオを見てくださいと、室内の中央に設置されたモニター画面に遺跡の発掘時の様子を映し出した。そのモニター画面の下部を見ると環濠の一部が復元されて展示してある。この復元模型は集落の周囲に巡らされた3条の環濠のさらに外側に掘られた第4環濠のものである。溝の底からは杭の列が見つかっていて、その杭に木の枝や竹などを横に結びつけて水流をせき止めていたようだ。こうした施設は水を調整する「(しがらみ) 」と呼ばれている。復元模型の先は、建物の外の覆屋に覆われた環濠調査施設へと続いている。

環濠の復元模型の上に設置されたモニター画面
■ それまでの縄文時代と異なって、弥生時代は水稲栽培を営む定住生活が開始された時代である。それと同時に、日本の歴史上、戦争が始まった時代でもある。強力な首長に統率された集団が近隣の村々を切り従え「ムラ」から「クニ」へ大きく時代が動いた時期である。攻撃から集落を守るために環濠集落が作られたことが、そのことを示している。近畿地方には、何重にも濠を巡らした多重環濠集落が多い。濠の縁には木の柵が築かれていたであろう。考古学者は矢が届かないための工夫である、と環濠を設けた理由を説明している。こうした多重環濠が戦争のための防御施設であった可能性は否定しない。

三重の環濠跡 楯が見つかった一番内側の環濠

出土した武器と武具
■ 下之郷遺跡も、中心部は3条の環濠が巡らされていた。西の3周濠のところからは銅剣、石剣、石鏃や弓が集中的に見つかっている。一番内側の環濠の底(地表から2mの深さ)からは、多数の木器に混じってほぼ完全な状態の楯が見つかった。今まで見つかった楯としては最古の品である。

■ しかし、外縁の6条から9条の環濠というのはいかにも多い。そのために、別の目的があったのではないかとされている。 面白いことに、魚の骨が最も内側の環濠からかなり多く発見されている。その骨はほとんどゲンゴロウブナの鰓蓋(えらぶた)や咽頭歯だった。コイやフナといった魚と水田は、非常によい関係にある。梅雨から夏にかけて水田からはき出される濁り水に誘われて、大量のフナやコイが遡上を開始し、川につながる水路を通って水田まで押し寄せるという。

ゲンゴロウブナ
■ 「生業複合」という概念がある。魚をせき止め、水路の水を抜けば手づかみでこれらの魚を捕まえることができた。 水田というと、稲だけを作るように見えるが、実は水田での魚の捕獲も重要な生業だったであろう。野洲川流域に住んだ弥生人は稲作漁労民だったのである。

■ 下之郷遺跡の環濠や井戸の中から、約300粒の稲籾が出土している。遺跡は弥生時代中期後葉のものであり、誰しも温帯ジャポニカの稲籾であると信じて疑わなかった。市教委は、この稲籾の伝来ルートや品種を解明するため、静岡大学の佐藤洋一郎助教授にDNA鑑定による分析を依頼した。だが、分析結果は意外だった。"稲籾の約40%が熱帯ジャポニカ、純粋に温帯ジャポニカのものは20%程度、残りはどちらとも言えない中間的な性質をもっていた"というのである。

各種の熱帯ジャポニカ
■ この分析結果は、複数の品種の稲が当時は同時に栽培されていたことの証左である。この事実をどう解釈するか。さまざまな推測がなされている。その一つは、当時は品種ごとに別々の田んぼに植えたか、あるいは多数の品種を一つの田んぼに植えていたとするものではある。多品種を植えていたことは品種により成熟時期が異なるため、災害などがあってもすべてに被害が及ばないように工夫されていたというのである。

■ 展示コーナーの一画に、対馬・種子島・ラオス・フィリピンなどで栽培されている熱帯ジャポニカのサンプルが置かれていた。この後に訪れた体験水田では、対馬と種子島とラオス(モチ)の熱帯ジャポニカが実際に栽培されていた。たまたま近くの民有地に植えられた温帯ジャポニカに比べると、背丈は高いが、株分けは少ない。

近江と西日本各地との交流
■ 下之郷史跡公園の環濠保存施設は、下之郷遺跡関連の出土品だけを展示・解説しているだけではない。野洲川流域で発掘されたそれぞれの弥生遺跡も併せて展示してある。その中に土器を介して西日本各地との交流を示すイラストがあった。

■ 弥生時代中期前半になると、同じ近畿地方でも地域ごとに個性的な土器を制作して使用するようになる。近江地方では「近江型甕」と通称される土器が出現する。この土器は口縁(こうえん、口のへり)の下の首部分が強くくびれていていているのが特徴だ。

弥生時代中期の近江型甕
■ 弥生時代中期後半になる受口状口縁甕と呼ばれる特徴的な形態の土器が生み出される。表面にくしの歯を押しつけたような刺突文(列点文)や櫛(くし)の歯で引っかいたような波状文が施されているのが特徴で、この甕は畿内や東海、北陸などの周辺地域でも見られ、後期になる出土例が増えてくる。

■ 東海地方では、弥生時代後期には壺や器台などの形態に近江との共通点が多く見られ、後期末になると受口状口縁甕の影響を受けてS字状口縁甕と呼ばれる土器が盛んに使われるようになる。そのため、近江と東海は深い交流があったと推察されている。

■ 環濠保存施設内の展示を見終わって、外へ出て環濠調査施設や復元環濠、体験水田を一通り見学して、史跡公園を後にした。正午の厳しい太陽が照りつける中を最寄りの「下之郷東」バス停に向かった。しかし、バスは30分後にしか来ない。仕方なく、熱射病をさけるため自動販売機でペットボトルを買って、守山駅に向かった。

環濠調査施設 石田川脇の桜並木

復元環濠 体験水田

伊勢遺跡:「国」の成り立ちを示す巨大な弥生時代後期の遺跡

■ 伊勢遺跡は守山市伊勢町から阿村町にまたがって営まれた弥生時代後期の遺跡で、昭和55年(1980)、個人住宅の建築に先立つ試掘調査によって初めて発見された。平成23年(2011)までに150カ所余りの地点で発掘調査や確認調査が実施され、東西700m、南北450m、面積30ヘクタールに達する大規模集落遺跡であることが判明した。下之郷遺跡の南約2.5kmの地点に位置しているが、守山市の外れにあるため、アクセスするにはJR栗東駅の方が便利だと聞いて、守山駅から一駅戻った。

■ 栗東駅前には伊勢遺跡方面の案内や標識は出ていない。しかし、駅からは500mほどのところと聞いていたので、守山市観光パンフレット「もりやま旅しるべ」に挿入された観光マップを頼りに歩き出した。大型スーパーや高層マンションの前を通り過ぎて伊勢町の住宅街に入り込んだが、遺跡の案内はどこにも見当たらない。たまたま自転車で通りがかった地元の女性がいたので道順を聞いた。教えて貰った通りに住宅街の中を歩いて行くと、やっと電柱に「伊勢遺跡」の標識を掲げた場所にでた。

皇太神社
■ 標識矢印が示す方向に細い路地を入っていくと、「皇太神社」の境内の前に出た。道はそこで行き止まりだった。神社の近くで玄関が開いている農家の一軒家があったので、再び遺跡の所在地を尋ねるべく立ち寄った。運が良かったのは、その家が伊勢遺跡保存評議会の山川氏の家だった。山川氏はわざわざ別の評議会事務所に立ち寄って遺跡のパンフレットを取ってくると、遺跡を案内してくれた。

■ 遺跡といっても、現在はすべて埋め戻され、あたり一面はこの春に植えられた早苗が成長して、青々と生い茂った水田が広がるばかりだ。伊勢遺跡の標識は、皇太神社の脇からあぜ道を入った水田の中に立っていた。

伊勢遺跡の標識と復元イメージ

伊勢遺跡周辺の航空写真と遺構配置図(*1)
■ 山川氏は、水田のあぜ道を伝って最初の発掘が行われたあたりまで案内すると、パンフレットの表紙に使われている写真と現在の水田を照合しながら、様々な遺構が出土したあたりを説明してくれた。昭和55年に最初の発掘が行われたあたりは、中心部の「方形区画に囲われた建物跡(SAB-1〜SB-3)」が出土した付近で、現在は倉庫が建っている。楼観(SB-10)が見つかったあたりは、南北に細長い畑に戻っている。

■ 伊勢遺跡では、方形区画の他にも大型建物跡が発見されている。それらの建物は、方形区画や楼観を取り囲むように円周上に18m間隔で配置された独立棟柱付きの大型建物で、5棟が見つかっている。さらに、大型建物が配置された円周の外側で、超大型の竪穴建物が見つかっている。一辺が13.6mで床面積は185平米を測る方形の建物で、弥生時代後期では国内最大級である。

伊勢遺跡の復元イメージ
■ 現在は遺跡周辺も民家が建て込んできていて、発掘当初仰ぎ見ることができた三上山の民家の屋根に隠れている。かろうじて送電線の二本の鉄塔が発掘調査時の周囲の景観をとどめてくれている。現在のように発掘調査後が埋め戻されて元の水田に戻った状態では、弥生時代後期中頃に突如としてこの地に出現した弥生集落が、この地域に存在した「クニ」の中心だったと言われても、すぐにはピンと来ない。

■ だが、近畿地方では弥生時代中期末から後期初頭にかけて、中期に発達した拠点集落に大きな変化が生じて解体・縮小したとされている。近江南部地域の遺跡群でも同様な変化が起きたと思われ、下之郷遺跡やその周辺の環濠集落が完全に解体した後に、伊勢遺跡が出現する。

■ 伊勢遺跡とその周辺に営まれた下鈎遺跡や下長遺跡には共通の特徴があるとされている。まず同時期に独立棟持柱付き大型建物(祭殿)を共有し、柵や区画溝で集落内を計画的に区画しているが、集落全体を囲う環濠を持たない。さらに、いずれの遺跡も野洲川流域を網の目のように流れる河川沿いに発達し、河川を積極的に利用した交易が行われていたと思われる。

大型建物群の復元イメージ(*1)
■ 何より気になるのは、楼観と思われる一辺9mを測る正方形の総柱建物(SB-10)を中心にそれを囲む円周上に配置された独立棟持柱付き大型建物の存在は、現在は5棟(6棟?)しか発掘されていないが、円周上にはさらに多くの建物が存在したはずである。イメージの上でそれらの建物を復元すれば、そこは祭祀場だったかもしれない。そして森岡説が正しいとすれば、その場所は大和に遷る前の卑弥呼の王宮だったかもしれない。

住宅の中の案内板 同左

■ 遺跡の主な案内や説明板が置かれた場所一通り案内していただいた後、お見せしたいものがあるから、今一度家に寄ってもらいたいと山川氏に誘われた。何事だろうと付いて行くと、奥から大型建物の模型を持ち出してきて玄関先に並べてくれた。良くできたミニチュアである。

大型建物の復元模型(*1)

■ 上記のように弥生時代中期から後期にかけて近江地域では、「受口状口縁」と呼ばれる独特な口縁部を持つ甕や壺、鉢がが作られた。これらの近江系土器は弥生時代中期の下之郷遺跡が存在したころ、近畿を中心に各地へ広がったが、伊勢遺跡が栄えた時代には近畿一円のみならず、東海、北陸、北九州など全国各地に広がった。

■ こうした土器の移動からうかがえる交流の様子から、森岡氏は邪馬台国がまず近江で栄え、その後大和に遷ったとする説を提唱しておられる。すなわち、伊勢遺跡こそ「原倭国」の中心だったが、その住民たちが大挙して大和の纏向に遷って「新生倭国」を建設したと説かれる。だが、果たしてそう言い切れるのだろうか。

■ 纒向遺跡を発掘調査された石野晴信氏によると、纏向遺跡では外来系土器の出土量が多く、外来系土器の占める比率は全体のほぼ15%であり、発掘場所によっては30%に達するところもあるという。だが、圧倒的に多い外来系土器は東海、吉備、北陸・山陰系の土器であり、近江系土器は外来系土器のうちのせいぜい10%前後に過ぎない。

■ と言うことは、仮に100個の土器が出土した場合、外来系土器はそのうちの15個であり、さらに近江系土器に至ってはその10%、すなわち1.5個に過ぎない。とてもではないが、新生倭国の中心とされる纏向遺跡の建設に、近江系住民が主導したとは言えまい。


【参考・引用文献】 (*1)伊勢遺跡のパンフから転記、(*2)下之郷遺跡のパンフから転記、 (*3)下之郷遺跡公園 のパンフから転記

2014/07/31作成 by pancho_de_ohsei
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