平成26年(2014)4月26日

 『三国志』で陳寿が書かなかった孫権の外交戦略

歴史講座で熱弁をふるわれる渡邊教授 (撮影 2014/04/26)

中国古代政治史の専門家からみた魏志倭人伝

渡邊義浩教授
■ 今月の「東アジアの古代文化を考える会」は、早稲田大学文学学院の渡邊義浩教授(1962 - )を招いて『孫呉の国際関係と倭国―三国志の世界から』というタイトルで講演願うと聞いて、池袋の豊島区生活産業プラザ多目的ホールに出かけることにした。渡邊教授は中国古代政治史、特に三国志研究の第一人者で、多くの著書を執筆しておられる。2012年に上梓された『魏志倭人伝の謎を解く 三国志から見る邪馬台国』(中公新書 2164)は、「魏志倭人伝」の記述を理解する上で小生には目から鱗(うろこ)の好著だった。

■ 執筆活動だけでなく、さまざまな分野で幅広い活躍をしておられるようだ。2008年から翌年にかけて、赤壁の戦いを描いた中国のアクション映画『レッドクリフ』が公開され話題になったが、渡邊氏はその日本語版の監修を手がけておられる。2011年には、中国河南省の文物考古研究所が編纂した『曹操墓の真相』という本が国書刊行会から出版された。その翻訳監修も渡邊氏である。さらに、先日見たNHKの新番組「英雄たちの選択」の「女王・卑弥呼 “辺境”のサバイバル外交」では、ビデオ出演で公孫氏の二面外交について語っておられた(4月18日付け橿原日記参照)。

■ 上記の『魏志倭人伝の謎を解く』の中で、渡邊氏は興味深い指摘をいくつもなされている。主な内容を列挙すると、次のようになる。

■ 西晋の歴史家・陳寿(ちんじゅ)が編纂した『三国志』は、歴史小説『三国志演義』と区別するために、「正史」と呼んでいる。中国では唐の頃から紀伝体の史書を「正史」と呼ぶようになったが、正しい史実を記録しているから「正史」なのではない。「正史」とは、国家の「正当性」を示すことを目的とした史書を言う。そのため、歴史的事実と異なる記録をしていることもあり、偏向すなわち記述の歪みが含まれている。むしろ、歪みを持たない記録を求める方が難しい。

■ 例えば、陳寿は魏書三十巻、蜀書十五巻、呉書二十巻という三部構成で『三国志』を著したが、魏書にだけ「本紀」を設けている。曹操(そうそう)が基礎を築き、曹丕(そうひ)が建国した魏を、漢王朝の正統な後継王朝と見なしたためである。蜀を建国した劉備(りゅうび)も呉を建国した孫権(そんけん)も皇帝として即位しているが、『三国志』の中では、彼らは形式的には魏の臣下として「列伝」の中で記されている。

三国時代
■ また、儒教の対外思想の中核をなす中華思想では、中華(=中国)を支配する天子が徳を修めることによって、東夷・南蛮・西戎・北狄と称される四方の夷狄がその徳を慕って朝貢してくると考える。そして、朝貢してくる夷狄の数が多ければ多ほど、天子の徳は高いと評価される。魏を正統な王朝とみなす『三国志』では、魏と国際関係を結んだ夷狄を記述するために巻三十で「烏桓・鮮卑・東夷伝」を附している。蜀も呉も、実際には周辺の異民族から朝貢を受けていた。しかし、これらの王朝を正統と見なさない陳寿は、『蜀書』や『呉書』の中に夷狄の列伝を設けていない。

魏志倭人伝
(冒頭部分)
■ 『三国志』の唯一の夷狄伝である巻三十の中で、倭国のことを記した「倭人の条」(わが国では、その箇所を「魏志倭人伝」と略称している)は、夷狄伝の中で最多の1983字を数える。『三国志』だけではない。中国の正史は『史記』から『明史』まで24を数えるが、異民族の中で日本に関する記録の文字数が最も多いのは倭人伝だけである。それほどまでに陳寿が力をこめて倭人伝を書いたのには、理由がある。西晋(265 -316)を建国した武帝司馬炎(しばえん)の祖父にあたる司馬懿(しばい)の功績を宣揚するという目的のためだった。

陳寿
■ 西晋の実質的な創立者は司馬懿である。司馬懿は、208年に赤壁の戦いが発生した年から曹操(そうそう)に仕え、曹操の参謀、そしてその嫡子曹丕(そうひ)の世話役として地位を確立していった。234年には五丈原で諸葛亮(しょかつりょう)の死を受けて蜀の勢威を挫き、238年には呉と連動して反魏的行動をとっていた遼東の公孫淵(こうそんえん)を討ち、魏における勢威を不動のものとした。

■ 陳寿は233年に蜀に生まれ、蜀に仕えて史書の編纂を職務とした。その蜀が263年に滅亡し、2年後の265年には司馬炎(しばえん)が魏の元帝から禅譲を受けて即位し西晋を建国した。晋の黄門侍郎(皇帝の諮問に応える側近)の張華(ちょうか)と春秋左氏学を極めた武将で学者の杜預(とよ)の推挙を受けて、陳寿は史官として西晋に仕えることになった。280年に呉が平定された後、彼は三国の史書を合わせて『三国志』を著した。おそらく、284年頃には『三国志』を完成させていたと推測されている。陳寿が65歳で死去したのは297年(元康7年)だから、53歳ころの労作だった。

『三国志』卷一「魏書 武帝紀」第一
■ 司馬懿が公孫氏を滅ぼしたことで、東夷の国々は魏の支配下に入って、その命令に従うようになった。特に、東夷の中でも遠方の海東の島国だった倭から女王卑弥呼が朝貢の使節を送ってくるようになった。そのことは司馬懿の功績である。その功績を宣揚することで、とりもなおさず陳寿自身が仕える西晋の王朝としての正当性を強調することにもなる。

■ しかも、中華思想は、天子の徳が四方に波及すればするほど、遠くの夷狄が中国に帰服すると説く。そのためには、実態はともかく倭国は魏の都洛陽から1万7千里の彼方の国でなければならない。また、他の夷狄とは異なって礼儀の備わった国でなければならない。そのため、陳寿は倭国を理念的に、しかも好意的に描いている。

■ 中国の戦国時代は諸国が絶えず戦争を続けており、遠くの相手と手を結んで近くの敵を片付ける近攻遠交策を外交の基本としてきた。三国時代においても事情は同じである。夷狄の朝貢国のうち魏が特に優遇して「親魏○○王」の称号を与えた国が二つある。大月氏国倭国である。大月氏国とは、蜀の西に位置し中央アジアからインド北部までを支配したクシャーナ王朝のことで、全盛期にはカニシカ王が仏教を保護したことでわが国でもよく知られている。魏の明帝曹叡(そうえい)は、229年に朝貢使節を派遣してきた波調(はちょう、ヴァースデーヴァ王)を親魏大月氏王とした。蜀を背後から牽制するためだった。

三国時代の国際関係
■ それから10年後の239年、公孫氏を滅ぼした魏を賀する使節を、東夷の倭国の女王卑弥呼が派遣してきた。当時、倭国は呉の南に位置する国であると認識されていた。呉を背後から牽制するために、魏は倭国を大月氏国に匹敵する重要な国と見なしたようだ。そこで、卑弥呼を「親魏倭王」に任じ、その証として金印を与えた。実際、魏と倭国とは親密な関係にあった。239年から247年までの9年間に、倭国から魏に4回使者を派遣し、魏からは2回使者が倭国を訪れている。後世の遣唐使の派遣が平均すると約18年に一回の割合だったのに比べて、魏と倭がいかに親密な関係にあったかがうかがえる。

■ だが、中国の史書では、夷狄伝は中華の栄光を示すために書かれた部分であり、夷狄の国々の事実をそのまま記録しているわけではない。儒教の理念に基づいて記録を取捨選択し、あるいは事実を創作して記録している箇所は当然ある。陳寿は若くして『尚書』や『春秋三伝』を修め、『史記』や『漢書』に精通していた。学問によって形成された陳寿の世界観によって、倭人伝の記述が規定されていることを忘れてはならない。また、陳寿は『三国志』を一から書き記したのではない。魏書には王沈(おうちん)の『魏書』と魚拳(ぎょけん)の『魏略』が、呉書には韋昭(いしょう)の『呉書』という先行する史書に多くを依拠している。

■ 倭人伝に記述されているのは、使者の報告などに基づいた部分だけではない。陳寿の持つ世界観や陳寿の置かれていた政治情勢によって著された観念的な部分も多い。両者はしっかりと識別されなければならないが、そのためには、37万字におよぶ『三国志』のみならず、それに匹敵する裴松之(はいしょうし)の註釈、さらには陳寿の世界観を形成した儒教の教典にも通じている必要がある。わが国の古代史や考古学の専門家が、魏志倭人伝という狭い範囲で邪馬台国論を展開しても、真実の邪馬台国は何も見えてこない、と渡邊氏は釘を刺しておられる。

 孫権が築こうとした国際秩序を類推する

赤烏元年銘画文帯神獣鏡(国宝)
■ 邪馬台国時代、卑弥呼が魏から下賜された銅鏡が三角縁神獣鏡か否かで、わが国の考古学会を二分する論争が展開されている。実は、邪馬台国時代に呉からもたらされた銅鏡も、2面発見されているのだ。

■ 甲府盆地南部の市川三郷町大塚には、曽根丘陵に築かれた鳥居原狐塚(とりいばらきつねづか)古墳がある。昭和54年(1979)に発掘調査が行われ、副葬品としてホウ製鏡の内行花文鏡らと共に、一枚の対置式画文帯神獣鏡が出土した。その鏡の外区には、右廻りで「赤烏元年五月廿五日□□□□□□百〓□□□□君侯□□□□萬年」の鋳出銘がめぐらされていた。「赤烏(せきう)元年」は三国時代の呉の年号で、魏の景初2年、すなわち西暦238年にあたり、卑弥呼が魏の使節を派遣する前の年である。この赤鳥銘画文帯神獣鏡は市川三郷町の一宮浅間神社の所蔵であるが、現在東京国立博物館に寄託されている。

赤烏7年銘画文帯神獣鏡
■ 呉の紀年銘鏡の出土例はもう一面報告されている。兵庫県宝塚市安倉南二丁目に築かれた古墳時代前期の円墳の安倉高塚(あくらたかつか)古墳から、昭和12年(1937)に赤烏7年の銘がある鏡が見つかっている。やはり対置式神獣鏡である。赤烏7年は西暦244年にあたる。

■ これらの呉の鏡は、卑弥呼が魏へ使いを送ったとされる景初3年(239)の時代に近く、その入手経路や副葬された事情などを知る上で欠くことができない貴重な資料である。

■ 呉の年号が入った銅鏡がたとえ2面でも出土しているのは、当時の倭国が呉と何らかの関係を持っていた証である。それが民間の交易だったのか、外交使節の往来だったかは、今となっては不明としか言いようがない。先日のNHKの新番組「英雄たちの選択」では、公孫氏の滅亡に際して卑弥呼が魏と呉のいずれを新たな後ろ盾として選ぶか悩む場面を想定していた。呉は軍事力の点では魏に劣るが、魏よりも航海技術に優れていて、現在のベトナムやカンボジアなど南方の国々と盛んに交易を行っていたことが利点として示されていた。

3世紀前半の東アジア
■ 魏を正統な王朝と考える陳寿は『三国志』の中で呉がどのような夷狄と外交関係を結んでいたか記述していない。しかし、黄龍元年(229)4月、孫権が武昌で呉の皇帝として即位したからには、魏と同様に周囲の異民族と外交関係を樹立し、自らの国際秩序を築いたはずである。

■ 呉の西には同盟国の蜀が位置していたため、西戎との外交関係は築けなかったが、その他の地域の夷狄にはアクセスしたに違いない。『三国志』の呉が築いた国際秩序とはどのようなものだったか、それを知りたくて本日の歴史講座に参加した。

■ 渡邊義浩教授は巨体に似合わず早口である。しかも並みの早口ではない。まるで次から次へと鉄砲玉が飛び出してくるような早さだが、話の論理がしっかりしているので、聞いていても気持ちがよい。しかも話の途中に冗談が入り、聴衆を飽きさせない。大学での教授の講座はおそらく人気の高い授業だろうと推察した。

■ 上記ののように、『三国志』では、呉が築いた国際秩序が隠ぺいされている。しかし渡邊教授は、『三国志』の呉書の種本となった韋昭の『呉書』を丹念に読んで孫権の異民族政策を分析することで、孫権がどのような国際秩序を築こうとしたのかおぼろげに見えてくると言われる、教授の話は非常に興味深い内容だったので、以下にその論旨を要約してメモしておくことにする。

 南蛮の国々との外交関係を築くために排除された交州の士燮(ししょう)の勢力

■ 孫権が勢力の基盤を持つ揚州と荊州の南には交州があり、後漢末以来、士燮(ししょう)が覇権を樹立していた。士燮は、王莽の治世に交州に移住してきた漢人の子孫である。

■ 198年(建安元年)、異民族の反乱で交州刺史が殺害されるという事件が起きたとき、士燮は兄弟たちを次々と各地の太守とすることを上奏し、交州を事実上支配した。さらに、綏南中郎将・領交阯太守として、交州の七郡を監督し管理する権限を後漢から認められていた。呉が南蛮の諸国と外交関係を樹立し朝貢を促すためには、交州を実質支配する士燮の勢力を排除しなければならない。

■ 210年(建安15年)、孫権は歩(ほ)シツという人物を交州刺史として派遣して交州の支配を目指した。その結果、恐れをなした士燮は兄弟ともども呉に臣従することを誓い、子息を質として差し出した。孫権は彼を衛将軍に任じたが、後漢が存続しているかぎり士燮は交州の七郡を監督し管理する権限を有していることになる。その実効支配を打倒しなければ、孫権は直接交州を統治することはできない。

呉に朝貢した南蛮三カ国
■ 孫権には運があった。226年(黄武5年)に士燮が死去したのである。交州刺史の呂岱(ろたい)は、その機に乗じて士燮の兄弟6人を皆殺しにして、呉による交州全域の支配を確立した。その後、孫権が皇帝に即位した229年(黄龍元年)の秋には、呂岱は朱応(しゅおう)と康泰(こうたい)という者を使者として南方の諸国に派遣して朝貢を求めた。その結果、扶南(現在のカンボジア)、林邑(チャンパ王国、現在の南ベトナム)、堂明(ラオ人の国家、現在のタイからラオス)は使者を派遣して孫権の皇帝即位を賀した。こうして、これらの国々が孫権の国際秩序の中で、朝貢を行う南蛮諸国に位置づけられるようになった。

■ 余談になるが、上記の朱応と康泰はそれそれ『扶南異物志』と『扶南土俗』を残している。これらの史料の分析から、大月氏国の波調(はちょう、ヴァースデーヴァ王)の使者が彼らと接触していたことが判明している。大月氏国の波調とは、魏の明帝から229年(太和3年)12月、「親魏大月氏王」に封建された王であり、魏と扶南にほぼ同時期に使者を派遣していたことになる。その背景にはササン朝ペルシャ(226〜)の勃興があると推測されている。

■ ちなみに、在家訳経者支謙(しけん)は、大月氏国の出身であり、後漢の献帝時代の動乱を避けて南渡し、呉の孫権のもとに至った。呉では、博士となり、東宮を補導して、呉仏教の創始者の一人とされている。支謙の後、247年(赤烏10年)に呉の都・建業に来た康居の康僧会(こうそうえ)は、孫権の支持を得て、江南地方で最初の仏教寺院、建初寺を建立したとされている。史書には示されないが、孫権は仏教文化を受容していたのだ。

 呉の国際秩序の中で、北狄の内臣としての公孫氏と外臣としての高句麗

■ 南蛮を国際秩序に組み込んだ呉は遼東・朝鮮半島へも海上を経由して勢力を拡大しようとした。当時、遼東半島から朝鮮半島の一部を支配しながら魏と対峙していたのは、公孫氏政権である。公孫氏は漢民族なので夷狄には該当しないが、公孫氏と結ぶことで呉は魏を背後から牽制することができる。

三国時代の支配地域
■ 184年(中平1年)に勃発した黄巾の乱の混乱に乗じて、後漢の地方官だった公孫度(こうそんど)は、遼東地方に半独立政権を樹立した。

■ 189年(中平6年)、公孫度は後漢から遼東太守に任命されたが、そのまま後漢から自立すると、朝鮮半島の北端である楽浪郡や、一時は山東半島まで勢力を伸張した。204年(建安9年)には、公孫度の嫡子である公孫康(こうそんこう)が、楽浪郡の南に帯方郡を設置し、韓や倭を勢力下に置くほどまでに至ったとされている。

■ 228年(太和2年)、公孫康が没すると、次子である公孫淵(こうそんえん)が、叔父の恭を排除して政権を確立した。229年(黄龍元年)5月に皇位に即いた呉の孫権は、この年、使者を公孫淵のもとに派遣して、即位したことを告げさせている。この時、公孫淵は何らかの対応を示したと思われるが、史書にはなにも記されていない。

■ 232年(嘉禾元年)、孫権は馬の購入を目的に使者を遼東に派遣して、公孫氏との連携を図った。後述のように、呉は前年に東夷の亶州(たんしゅう)の探索に失敗していて、倭などの東方海域の情報を持つ公孫氏との連携を必要としていた。公孫淵は、帰国する呉の使節に付けて使者を派遣して、上表文を提出し、毛皮・馬を献上して藩国となることを申し入れた。

公孫氏の両面外交
■ 233年(嘉禾2年)、喜んだ孫権は張彌(ちょうじ)と許晏(きょあん)を大使とする使節を派遣して、「幽・青二州十七郡百七十県」を支配する燕王に公孫淵を封建し、九錫(きゅうせき)を与えた。九錫とは、中国の漢や晋のころ皇帝より臣下に下賜された9種類の最高の恩賞で、内臣としては最高の待遇を与えたことになる。

■ ところが、魏に圧力をかけられていた公孫淵は呉の使節の大使を殺害して、その首を魏に送った。当時、魏は諸葛亮の北伐と対峙しており、遼東へ兵を回すことができない状態にあった。公孫淵の読み通り、魏の明帝は公孫淵を大司馬・楽浪公に封建する懐柔策に出た。つまり、公孫氏は魏と呉に対する両面外交を展開したのである。

■ 234年(建興12年)8月、諸葛亮が五丈原で陣没した。諸葛亮の脅威から解放された魏は、遼東の問題に向き合うようになった。237年(景初元年)7月、魏の明帝は幽州刺史の母丘倹(かんきゅうけん)に公孫淵を攻撃させる。これを撃退した公孫淵は、自立して燕王を名乗り紹漢という年号を立てた。それと同時に、呉に使者を派遣して援軍を要請する。

■ 4年前に使者を殺された孫権は、公孫淵を支援しなかった。派遣されてきた使者を厚遇した上で、羊衛(ようどう)という者の献策に従って、ひそかに大軍を率いて彼を北方に送り、魏と公孫氏の戦いの形勢を傍観させることにした。そうした呉の態度を見透かしたように、238年(景初2年)正月、魏の明帝は司馬懿(しばい)に4万の兵を与えて公孫淵を討伐させた。その年の6月、司馬 懿は遼東に到着すると、8月には公孫氏の首都・襄平城(現在の遼陽)を陥落させ、公孫氏を滅ぼした。

■ 239年(赤烏2年)3月、呉の羊衛は公孫氏滅亡後に遼東の守将として置いた魏の張持(ちょうじ)と高慮(こうろ)を討ち、男女を略奪して軍を引いた。これにより、呉は北方への国際秩序を事実上断念した。それだけではない。それ以前に北狄として封建していた高句麗もこの時点で呉との関係を断ち切った。239年と言えば、邪馬台国の卑弥呼(ひみこ)が派遣した朝貢使節が、その年の6月に帯方郡に到着した年である。その頃までには呉の軍隊は遼東半島から引き上げていたのだろうか。

■ 高句麗の臣属は、呉が公孫氏へ使者を派遣したことを契機としている。233年に孫権が公孫淵に派遣した使節の2人の大使は、上記のように殺害されて、その首が魏に送られた。その使節には4人の中使も同行しており、彼らは玄菟郡に幽閉されていた。4人はなんとか脱出に成功したが、そのうちの2人が傷を負ったので途中で残して、残りの2人が高句麗に向かい、その王の位宮(いきゅう、山上王or東川王?)に孫権の詔を伝えた。

■ 公孫氏と対立していた高句麗王の位宮は、帰国する呉の使節に同行して使者を孫権のもとに派遣し、貢ぎ物を献上して臣従を誓った。一年後、孫権は高句麗に使者を派遣して、位宮に「單于」(ぜんう)という称号を贈与した。單于という称号を選んだのは、高句麗を北狄と位置づけることで、呉の国際秩序を北方に及ぼすためだった。

■ しかし、236年(青龍4年)7月、高句麗の東川王(とうせんおう)は、呉の使者を斬り捨ててその首を魏に送り、その後は魏の改元を祝う使者を遣わす(237年)、魏の司馬懿が公孫淵を討つ際に兵を派遣して援助する(2388年)など、魏に傾いた外交をしていた。だが、魏は244年(正始5年)から翌年にかけて高句麗征討をおこなって、魏の東アジアの国際秩序を確立した。

■ こうして呉の北方にける国際秩序は、魏が公孫氏を滅ぼし、高句麗を征討することで打破された。魏が東アジアの国際秩序を形成する過程で、「親魏倭王」の称号を与えて卑弥呼を重用した背景には、呉の東方への国際秩序に対抗する目的もあったとされている。

 呉の国際秩序の中で、倭国は重要な東夷の国として位置づけられていた?

呉の孫権
■ 229年(黄龍元年)5月に皇位に即いた呉の孫権は、翌230年(黄龍2年)の正月、将軍の衛温(えいおん)と諸葛直(しょかつちょく)を派遣して夷州(いしゅう)と亶州(たんしゅう)を探させている。夷州は現在の台湾、亶州は始皇帝のとき徐福(じょふく)が移住した場所とされ、古来日本を指すと言われてきた。二人の将軍は武装兵1万を率いて海に浮かんだが、夷州の住民数千人を連れ帰っただけだった。そのため、翌年には罪に問われて獄死している。

■ 二人の将軍の遠征目的はなんだったのだろうか。当時はまだ人口が少なかった長江流域に政権を樹立した孫権にとって、兵力の増大・強化は必須の課題だった。そのため、中国東南部に住む山越(さんえつ)の人狩りを盛んに行っている。山越は単独の民族の名ではなく、多数の少数民族の総称とされている。山越はその地方で産する鉄を加工して武器を製造することのできる文化を持ち合わせていた。235年から3年間、孫権は諸葛恪・陳表・顧承らに楊州の非漢民族である山越を討伐し、降伏した山越の民を呉の戸籍に組み込み、兵士を6万人徴兵したとされる。

■ そうした経緯から推して、衛温・諸葛直の遠征も人狩りだったと解されている。しかし、渡邊教授は別の見解をおもちだ。遠征軍が亶州にたどり着けなかったことが、処刑の理由ではないかと推察される。つまり、倭国に到着して朝貢させるという第一の目的が果たせなかったために、罪を問われて獄死したのだろうとみなしておられる。

国宝「漢委奴国王」の金印
■ 当時、東夷の亶州は会稽郡東治県(とうやけん)の東の海上にあると理解されていた。会稽の市に時折亶洲人がやってきて絹を求めていたり、会稽東冶の人間が海に出て、風のために漂流し亶洲に着いたという話が流布されていた。なによりも、倭の奴国の王が西暦57年に朝貢使節を派遣してきて、光武帝が「漢委奴国王」の金印を下賜したことも知られていた。

■ 後漢から王として金印を受けた倭国を朝貢させ、呉の国際秩序の中で外臣の「東夷」と位置づけることは、魏との対抗上、また呉の国際秩序を確立する上で、どうしても必要だった。そのため、孫権は何度も使者を倭国に派遣することを試みたであろう。「赤烏元年」銘や「赤烏7年」銘の銅鏡がわが国で出土するのは、史書には示されない呉と倭とのなんらかの外交関係があった証とも言える。

【参考文献】 講演会レジメ「孫呉の国際秩序と亶州

2014/05/02作成 by pancho_de_ohsei
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