畝傍山(うねびやま)橿原市のほぼ中央で、大和三山の一つに数えられるなんとも存在感のある独立峰

甘樫丘の豊浦展望台から見た畝傍山
甘樫丘の豊浦展望台から見た畝傍山

神武天皇が畝傍山麓に橿原宮を営んだ理由

池田潤作『古事記のコード(暗号)』
 分から秋分までの間、北半球では太陽は真東からやや北寄りの方角から上り、真西からやや北寄りの方角に沈む。その中間にある夏至の日には、日の出(日出)・日の入り(日没)の方角が最も北寄りになり、一年中で一番昼が長く夜が短い。夏至の日は、梅雨のさなかの6月21日である。この日の日の出を見るべく、畝傍山に登る予定でいた。

 由は、平成23年の暮れに出版された『古事記のコード(暗号)』という著書の中に、気になる一節があった。著者の池田潤氏に言わせれば、畝傍山は大和の中でも有数の「日読み」の山であるという。夏至の日に畝傍山の山頂から太陽の昇り沈みを望むと、朝日は三輪山の方角から昇ってきて、夕日は二上山の右手方向へと沈んで行く。冬至の日には、宇陀と吉野の境にある竜門岳の方角から朝日が昇り、夕日は河内と大和の境である葛城山の方向へ沈んでいくという。

 輪山は畝傍山の東北東8.84キロに位置し、畝傍山頂から東北方向を見れば、晴れた日には梢の間から耳成山が望まれ、そのはるか右側に三輪山のシルエットを見ることができる。一方、二上山は畝傍山の西北西10.56キロに位置し、畝傍山頂から西北方向を見れば、葛城・金剛連山の右端に二こぶ山を望見できる。夏至の日の太陽は本当に三輪山の方角から昇るのだろうか。それを確かめたいと思った。残念ながら、今年(平成24年)の夏至の日は、台風5号から変わった熱帯低気圧が梅雨前線を刺激して朝から本降りの雨で、畝傍山の山頂に登って朝日を眺めることはできなかった。

畝傍山頂から耳成山を望む
畝傍山頂から耳成山を望む
畝傍山頂から二上山を望む
畝傍山頂から二上山を望む

 古事記のコード(暗号)』の作者は一級建築士である。建築士の池田潤氏がなぜ『古事記』や『日本書紀』に記された神話や伝承に関心を抱いたのかは知らないが、『古事記』の背後には今まで誰も知り得なかった古代の地図が隠されているとして、神武東征をはじめ記紀神話の謎解きをしてくれている。現代の我々は、地図という文明の利器を介して正確な方位や方角を知ることができる。古代の人々が我々以上に方位や方角の詳しい知識を有していたとは思えないが、著者は建築士らしく製図台に日本地図を広げて線引きをしながら謎解きをしてくれているようで、その発想は面白い。

 の中で、神武天皇が即位にあたって橿原宮を畝傍山の東南に営んだのは、その地が六合(クニ)中心(モナカ)だからだとしている。著者の説明によればクニ(六合)のモナカ(中心)とは東−西、南−北、天−地の六つの方位が合わさるところを指し、これら東西軸、南北軸、天地軸が交わる特別な場所を「六合の中心」と呼ぶそうだ。そして、その場所が畝傍山であるという。

 代人にそうした意識があったかどうかは疑問だが、神武天皇が東西軸と考えたのは、古代中国の帝都築造で常に意識された北緯34度30分の緯度だそうだ。夏王朝にはじまり、殷、周、秦、漢とつながる中国の帝都はこの緯度線を中心とした地域に東西に分布しており、これを東へ延長すれば畝傍山を通るとのことだ。

 た、神武が南北軸と考えたのは若狭の遠敷(おにゅう)と熊野本宮大社を結ぶ線で、これは南北に流れる水の道であり、畝傍山もほぼこの南北軸上に位置する。そればかりではない。後の藤原京、平城京、平安京もこの南北線上に築造されている。

 かも、畝傍山は大和三山と言われる他の天香具山(152m)や耳成山(150m)よりも標高が高く、199mの高さを持つ「山」であり、天と地がぶつかり合い神々が降臨する場所である。聖なる太陽の出入りを見届け、天の気を受け止め、それを地に伝えるにはまことにふさわしい場所である。つまり、畝傍山は東西、南北、天地という六つの方位が交わる六合の地点であり、神武天皇はその山麓の東南に「畝火の白檮原(かしはら)の宮」を営んだという。

橿原神宮の外拝殿
橿原神宮の外拝殿
 武天皇が橿原宮を営んだとされる畝傍山の東南の地に、現在は神武天皇とその后を祭神として祀る橿原神宮が鎮座している。だが、明治の中頃まで、その宮跡が特定されることはなかった。明治22年(1889)になって、明治政府は神武天皇東北(うしとら)陵の考証と並行して、これと言った宮跡を伺わせる遺跡もないのに畝傍山の東南の地を強引なやり方で神武天皇の橿原宮に比定した。その年の7月には、京都御所の温明殿(賢所)が本殿として、また神嘉殿が拝殿としてそれぞれ下賜された。これらの建物を移して、翌明治23年(1890)3月に神宮の造営が完成した。

 時の政府は、明治天皇制を制度的に保証する大日本帝国憲法の制定を準備していた。この憲法はその第一条で「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之レヲ統治ス」とあり、天皇主権を第一の特色としている。第三条ではさらに「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」と天皇の絶対性を明言している。その思想的根拠は言うまでもなく皇国史観である。この新しい憲法のもとで国作りに邁進する明治政府にとって、万世一系の象徴ともいうべき初代神武天皇の存在は不可欠である。神武天皇が即位した宮もこの天皇を葬った陵も存在しなければならなかった。それは、歴史的事実とは無縁の理念上の真実であった。

橿原宮の伝承地に鎮座する神武天皇社
橿原宮の伝承地に鎮座する神武天皇社
 戸時代には別の場所が橿原宮の跡とされてきた。例えば、享保21年(1736)に編纂された『大和誌』も、ずばり「神武天皇社」という社が鎮座している場所を橿原宮伝承地に比定している。 本居宣長は明和9年(1772)の3月5日あら14日までの10日間、吉野と飛鳥を旅して『菅笠日記』を著した。その中で、畝傍山の近くに橿原という地名はなく、一里あまり西南にあることを里人から聞いたと記している。宣長が里人から聞いたカシハラは、現在の御所市柏原を指している。

 の神武天皇社は、JR和歌山線の「掖上(わきがみ)」駅から北へ10分ほどの距離にあり、平和と人権の確立をめざす部落解放運動で知られる水平社博物館の隣りに位置している。祭神として神倭伊波礼毘古命(かむやまといわれひこのみこと)、すなわち神武天皇を祀る。

畝傍山の周辺に展開する初期4代の天皇陵
 教民族学者で大阪教育大学名誉教授だった故人の鳥越憲三郎氏は、昭和45年(1970)5月、『神々と天皇の間』をという著書を朝日新聞社から出版された。鳥越氏はその中で、畝傍山は幽界の地とされていたのでは?、という疑問を呈しておられる。今でこそ畝傍山は大和三山の一つと称(たたえ)られているが、それは『万葉集』以後のことである。記紀の中では、天の香具山は信仰の対象とされているが、畝傍山は宗教的な山としての伝承をもっていない。そればかりか、神武、綏靖(すいぜい)、安寧(あんねい)、懿徳(いとく)の初期4代の墳墓は畝傍山の山麓に集められている。

 の背景に、当時は畝傍山を死後の山、黄泉(よみ)の山とみなす宗教観があったのでは、と推論しておられる。 つまり、当寺の古代の人々にとって、クニ(六合)のモナカ(中心)などという概念はなく、黄泉の山と認識されていたということになる。

主に3本の遊歩道から山頂に到達できる畝傍山

二上山を背景に聳える畝傍山
二上山を背景に聳える畝傍山(甘樫丘の展望台からの眺望)

 橿原市のほぼ中央で、こんもりと樹木に覆われて周囲の市街地を見下ろしている山が、大和三山の一つに数えられる畝傍山だ。なんとも存在感を感じさせる不思議な山である。標高は199.2mにすぎないが、41ヘクタールの裾野を持つ。かっての火山で、大和平野の原野の真ん中で、ある日突然溶岩が吹き出し始め、それが徐々に盛り上がって現在の山形を造ったにちがいない。その様子が目に浮かぶ気がする。そもそも畝傍とは「火がうねる」の意味である。古代人がこの山を火山と認識していたために付けられた名前であろう。

藤原宮の西に位置する畝傍山
藤原宮の西に位置する畝傍山
 傍山は、眺める場所によってその形を変える。藤原京の宮城跡あたりからは三角形に見える。しかし、少し南に下った明日香村あたりからは、向かって右側がすこし高くなったいびつな台形に見える。古びた中折れ帽をテーブルの上にうち捨てたようで、見る者になんとなく親近感を抱かせる。夕暮れ時、明日香村にある甘樫丘の展望台から見た景色がよい。二上山や葛城山、金剛山といった大男の兵士達を率いて先頭に立つ小柄な隊長のように、畝傍山が逆光の中で黒々と横たわっている。

 の山を全国に知らしめたのは、おそらく万葉集に載っている中大兄(なかのおおえ)皇子の作と伝えられる三山の妻争いの伝説歌であろう。以下の歌詞は、中学校の国語の教科書などでもよく掲載されている。
”香具山は 畝火ををしと 耳梨と 相争ひき 神代より かくにあるらし いにしえも然にあれこそ うつせみも 嬬(つま)を 争ふらしき”

畝傍山の遊歩道略図
畝傍山の遊歩道略図
 の歌の意味は、古来様々に解釈されている。複数の解釈が可能なのは、万葉仮名で書かれた原文の読み方にある。原文では”畝火ををしと”を「雲根火雄男志等」と書いてある。これを「畝火雄雄(をを)しと」読むか「畝火を愛(を)しと」と読むかで、理解の仕方がちがってくる。前者であれば、畝傍山は男山となり、後者であれば女山と解さなければならない。

 傍山を男に例える解釈の理由の一つは、山の高さにある。橿原市の市域に含まれる大和三山(耳成山、天香具山、畝傍山)のうち、一番高いのは畝傍山である。しかし、額田王女をめぐる実弟の大海人皇子との争いを、中大兄皇子が比喩したとするならば、畝傍山は額田王女が仮託された女山ということになる。


 成17年(2005)7月、天香久山、耳成山とともに畝傍山が国の名勝に指定された。歴史的風土特別保存地区にも指定されている。そのため、山麓から山頂にいたる比較的しっかりした遊歩道が築かれている。主な遊歩道のルートは3つある。一般的なのは、橿原神宮の北参道から東登山口に入り、神武天皇の后・姫蹈鞴五十鈴媛命(ひめたたらいすずひめのみこと)を祭神として東大谷日女命(ひがしおおたにひめみこと)神社の横を抜けていく遊歩道である。

媛蹈鞴五十鈴媛命を祭神として祀る東大谷日女命神社
媛蹈鞴五十鈴媛命を祭神として祀る東大谷日女命神社
 戸時代には東大谷日女命神社は熊野権現と称して、伊ザ冊命(いざなみのみこと)を祭神としていたという。明治の中頃は祭神を神功皇后としていたが、幾ばくもなく媛蹈鞴五十鈴媛命に変更した。そして、畝傍の東の大谷にあることから東大谷日女命神社として申請した。その結果、無格社として許可され今日に及んでいるでいるという。

 二の遊歩道は、畝傍山の西山麓に鎮座する畝傍山口神社(うねびやまぐちじんじゃ)の朱塗りの鳥居の脇から築かれていて、山腹の途中で上記の遊歩道と合流する。畝火山口神社は、息長足姫命(おきながたらしひめのみこと)豊受比売命(とようけひめのみこと)、および表筒男命(うわつつのおのみこと)を祭神として祀る古い神社である。『延喜式』には、当時大和国にあった六ケ所の山口社の一つに数えられ、「畝火山口坐神社」に比定されている。大同元年(806)大和国で神封一戸をあてられ、貞観元年(859)正月27日には、従五位下より正五位下に進級したことが記録されている。

畝傍山口神社
 在の社地は御旅所の後で、以前はこの地ではなく畝傍山の山頂に祀られていた。昭和15年(1940)に皇紀2600年を記念して現在の場所に遷されたという。遷された理由というのがふるっている。昭和15年に畝傍山東麓の橿原神宮で大拡張工事が行われた際、橿原神宮や神武天皇陵を見下ろすのは良くないとして、日本政府より畝傍山西麓(現在地)に遷座するよう命じられたという。その際、郷社から県社に昇格した。

遊歩道の途中にある眼福地蔵
遊歩道の途中にある眼福地蔵
 の遊歩道は途中で二股に分かれる。一方は、階段が築かれた比較的急な坂道を登っていく。もう一方は比較的平坦な道が続くが、途中に眼福地蔵が一体置かれている。雨傘をさし、赤いよだれかけをかけている。石地蔵が赤いよだれかけをしているのは、子供を亡くした親が、早く自分の子を御地蔵様に救っていただきたいとの願いをかけて、子供の匂いのついたものをつけたのが始まりとされている。由来もなにも分からないが、いつ来ても手入れが行き届いていて、新しい献花が供えられている。

 う一つのルートは、橿原神宮の北参道の隣りにある若桜友苑の背後からの登山道である。若桜友苑は戦没者の英霊を慰める慰霊公苑で、綺麗に整備された芝生公園の中に二つの碑が建っている。

若桜友苑の殉国の碑
若桜友苑の殉国の碑
 つは第十三期海軍甲種飛行予科練習生戦没者一千余名を祀った「甲飛十三期殉国の碑」である。甲飛十三期の生存者が花も蕾のまま散った友を偲んで建立した。その時、この公苑が若桜友苑と名付けられたという。もう一つの碑は、航空母艦・瑞鶴の戦没者を祀る「軍艦瑞鶴の碑」と呼ばれている。瑞鶴はフィリピン沖海戦で米艦上機の猛攻を受けて撃沈された戦没者の英霊を祀るために、同艦生存者の「瑞鶴会」よって昭和56年10月新しい碑が建立された。

 のルートの登山道は遊歩道というにはほど遠い。最初は平坦な道が続くが、途中から火山岩でできた岩山を垂直に登る急斜面に変わる。よほどの健脚でないと躊躇したくなる山道だが、毎日のようにこのルートから山頂に登ってくる近隣の住民がいる。

畝傍山山頂
畝傍山山頂

 傍山の山頂はさして広くない。それでも夜明けとともに近隣から多くの住民が朝の散歩を兼ねて山頂を目指して登って来る。朝の6時半から携帯ラジオに耳を傾けながら、ラジオ体操を済ませて下山していく常連さんもいる。

畝傍山口神社社殿跡
畝傍山口神社社殿跡
埴土を採取する聖地
埴土を採取する聖地
 頂の広場の脇に崩れかけた竹垣に囲われた畝傍山口神社社殿跡がある。上に述べたように、昭和15年までは、畝傍山口神社はこの地に鎮座していた。古老の話によると、祭日の夜は山麓から山頂まで提灯の火が続き、山頂付近に夜店が並んだという。

 の社殿跡の隣りに、樹木を石垣で囲んだ土壇がある。ここで、住吉大社で毎年2月に行われる祈年祭と11月に行われる新嘗祭の前に、畝傍山の埴土(はにつち) を採ってくる「埴使(はにつかい)の神事」が行われる。住吉大社のとても大切な神事で、住吉大社の埴使の神職が先ず曽我川東岸にある雲名梯(うなで)神社で齋戒の後祝詞を奏し、次いで畝火山口神社で祭典を行なった後、畝傍山に登る。そして、山頂のこの地で口に榊の葉を含んで埴土を三握半採取し、埴筥(はにばこ)に収めて持ち帰る。

 取される埴土には、一握りに5〜6粒のネズミノフンのようなものが普通の土に混じっているそうだ。持ち帰った埴土は、土に混ぜてお供えを入れる神器を作るのに使われる。ところで、ネズミノフンのようなものは、コフキコガネの糞であるという説がある。コフキコガネはコガネムシの仲間だが、全身に微毛が生えているため、その名のように粉を吹いているように見える昆虫である。




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