豊浦宮・豊浦寺跡:推古天皇の豊浦宮を改造した豊浦寺の跡地

豊浦(とようら)集落の中心に位置する「太子山向原寺」

現在の向原寺(こうげんじ)豊浦宮(とゆらのみや)豊浦寺(とゆらでら)の遺構の上に建つ

豊浦寺の案内板
豊浦寺の案内板
 日香村大字豊浦のほぼ中央に「太子山向原寺」という浄土真宗の寺がある。この寺を中心とした一帯の地下には、かっての豊浦宮跡や豊浦寺跡が埋まっている。『日本書紀』は欽明天皇13年(552)、百済の聖明王が金銅の釈迦如来像や経典,仏具などを献上して仏法のかぎりなき功徳を説き、その弘通を勧めたと記す。だが、多くの群臣たちは、異国の神を祀れば国神の怒りを買う恐れがあると反対した。それで、天皇は蘇我稲目(そがのいなめ)に仏像を与え、試みに個人的に崇拝させることにした。

 目は小墾田(おわりだ)向原(むくはら)にあった自宅を寺に改造して、その仏像を祀った。それが向原寺の創起であり、我が国の最初の仏教霊場であるという。しかし、物部尾興(もののべのおこし)ら廃仏派が予感したように、まもなく国中に疫病が流行した。そこで、彼らは「仏神」のせいで国神が怒っているためであると奏上した。欽明天皇もやむなく彼らによる仏像の廃棄、寺の焼却を黙認したという。尾興たちは、聖明王がもたらした金銅仏を百済に帰れと「難波(なにわ)の堀江」へ流し、寺を焼却した。

太子山向原寺の本堂
太子山向原寺の本堂

 日本書紀』によれば、崇峻天皇5年(592)の陰暦12月8日、敏達天皇の皇后だった豊御食炊屋姫(とよみけかしきやひめ)が、推古天皇として豊浦宮(とゆらのみや)で即位し、我が国最初の女帝が誕生した。それ以後、本格的な都城である藤原京が築かれるまでの約100年間、歴代天皇の宮はほとんど飛鳥に置かれることになる。推古天皇の小墾田宮(おはりだのみやb)、舒明天皇の飛鳥岡本宮と田中宮、皇極天皇の飛鳥板蓋宮(あすかいたぶきのみや)、斉明天皇の飛鳥川原宮と後飛鳥(のちのあすか)岡本宮、天武天皇・持統天皇の飛鳥浄御原宮(あすかきよみがはらのみや)などである。言うならば、飛鳥時代100年の歴史は推古天皇がこの豊浦の地に宮を構えた時から始まったといってよい。

 かし、崇峻(すしゅん)天皇暗殺という未曾有の事件が発生したのは、一ヶ月前の11月3日である。天皇暗殺は余りに衝撃的で、強烈な影響を世間に与えた。それを回避するために、策士とされる蘇我馬子(そがのうまこ)は、我が国初の女帝登極という裏技で人臣を収攬しようとした。だが、わずか一ヶ月では新帝の皇居など準備する時間があろうはずがない。おそらく、廃仏派によって焼却させられた稲目の家の跡地に、馬子は新しい家を建てていたと思われ、推古天皇はその家を宮として即位したのだろう。11年後の推古天皇11年(603)10月、推古天皇は豊浦宮から小墾田宮に宮を遷した。

河原石を敷き詰めて周囲を舗装した豊浦宮の遺構
河原石を敷き詰めて周囲を舗装した豊浦宮の遺構
 浦の向原寺から南の台地にかけて往時の礎石が残っており、この地域が豊浦宮の推定地とされてきた。1957年以来、現在の向原寺の寺域で1970年、1980年、1985年と数度におよぶ発掘調査が行われた。向原寺の庫裏改築に伴う第三次調査(1085年)では、7世紀前半建立の豊浦寺の講堂と推定される立派な瓦葺き礎石建物跡が見つかった。

 でに第一次調査(1970年)では、本堂の北50mの地点で石列が発掘されており、金堂に関係したものと推測されている。近くに民家が建て込んでいるため、塔の遺跡はまだ見つかっていないが、おそらく塔−金堂−講堂が南北に並ぶ四天王寺様式の豊浦寺が、現在の豊浦集落一帯に聳えていたと思われる。

 三次調査では、瓦葺き礎石建物跡の下層から石敷を伴う掘建柱建物跡も掘り出された。掘建柱建物は南北3間(柱間1.56m等間)以上、東西3間(柱間1.83m等間)の南北に長い建物だった。建物の周囲は、柱列の中心から30cmほど離れて人頭大の玉石を並べた石列が巡らされていた。飛鳥の宮殿は、建物のまわりに河原石を敷いて舗装するのが特徴である。このため掘立柱建物跡は豊浦宮の遺構と認定された。飛鳥における最初の宮殿遺構の発見である。

 うした発掘調査の結果、従来言われている通り、この地に豊浦宮が造営され、その宮が小墾田宮に遷った跡に豊浦寺が建設されたことが分かった。しかも豊浦寺は飛鳥寺造営からさほど時を置かず、7世紀初頭に造営が始まったものと考えられる。

 原寺では発掘調査された遺構の一部を公開しており、飛鳥時代の遺構を間近で見ることができる。向原寺の庫裏に声をかければ、住職の奥さんが気さくに庫裏の裏にある遺構の所に案内してくれて、遺構を見下ろしながら簡単な説明をしてくれる。発掘当時の写真は本堂で閲覧できる。

難波池の傍らに建てられた「伎楽伝承の地」の記念碑

向原寺の南にある難波池

 ころで、現在の向原寺の南に、難波池と呼ばれている小さな池がある。池の中央に祠を安置しただけの、一見しただけでは何の変哲もない池だが、池のほとりに以前にはなかった説明板がいつの間にか立てられている。そこに、意外なことが書かれている。この場所が「難波の堀江」であるとの伝承をもち、後世の記録には、難波の堀江に捨てた仏像が信濃の善光寺に祀られたと、善光寺縁起には語り伝えられているという。

別の角度から見た難波
別の角度から見た難波池
 部尾興たちが金銅仏を捨てたのは、間違いなく「難波の堀江」だった。彼らは百済からの蕃神が百済に帰れるようにわざわざ難波の堀江に捨てたのである。ちなみに難波の堀江とは現在大阪市内を流れる大川のことで、仁徳天皇が洪水や高潮を防ぐために難波宮の北に水路を掘削させ、河内平野の水を難波の海へ排水できるようにした水路とされている。

 もそも「池」と「堀江」では、概念が全く異なる。しかも『善光寺縁起』の伝えるところによれば、推古天皇10年(602)、信濃の国の本田善光が国司に伴って都に参った折、たまたま難波の堀江にさしかかると、「善光、善光」と呼ぶ声がどこからともなく聞こえてきたという。そして、驚きおののく善光の目の前に、水中より燦然と輝く尊像が出現したので、善光はそれを持ち帰った。それが現在善光寺で祀られている秘仏本尊の一光三尊阿弥陀如来像だという。 したがって、説明板に記された善光寺縁起は従来の伝承とは大きく異なる。

記念碑「伎楽伝承の地」
記念碑「伎楽伝承の地」
 成22年(2010)7月23日、その難波池の畔に建てられた記念碑「伎楽伝承の地」の除幕式が行われた。ここに碑を建てることを思い立ったのは、韓国の世宗大学校日語日文学科教授の李応寿(イウンス)教授(56)だそうだ。聖徳太子が築いたとされる日本初の伎楽教習所ついて、教授はその所在地は現在の明日香村豊浦であるとする新説を2年前に発表された。そして百済人・味摩之(みまし)が伎楽を伝えた場所に、そのことを顕彰する記念碑を建てるなら、現在の向原寺の境内に立ててみたいと思われたそうだ。そうした願いを実現されたことになる。

 楽伝来については、『日本書紀』に有名な記述がある。仏教伝来から60年後の推古天皇20年(612)、百済の味摩之(みまし)が帰化し、自分は呉に学んだので伎楽の歌舞ができると言った。そこで、桜井に住まわせ、若者を集めて伎楽を習わせたという。戦後、桜井市出身の評論家・保田與重郎(やすだ よじゅうろう)(1910 - 1981)は、味摩之が伎楽を若者たちに教習させた場所を考証し、江戸時代の『大和名所図絵』に土舞台(つちぶたい)が描かれているのを知り、そこが伎楽教習所だったとして、昭和47年11月3日に「土舞台」の碑を建てた。

韓国の世宗大学の李応寿教授
韓国世宗大学校の李応寿教授
 応寿氏は、保田與重郎の説を徹底的に検証して、現在「土舞台」の碑が建っているあたりは5世紀後半の古墳の密集区域であり、墓は奈良時代の8世紀半ばころまで存在したことを確かめられた。そして、保田説の誤謬は『聖徳太子伝暦』に出てくる「桜井村」をそのまま技楽の「桜井」に当てはめてしまったことにあるとし、桜井の地名を他に求められた。湧き水があふれ出る井戸や泉のほとりに桜の木があったことから「桜井」と名付けられた地名は日本各地に存在する。現在豊浦にある向原寺は、古代には豊浦寺といったが、もともとは桜井寺と呼ばれ、その脇には桜井、別名榎葉井(えのはい)という井戸があった。

 時の寺院の道場は、仏法を修行する場所だが、同時に仏に奉納する芸能を教授し、練習する場所だった。そのため、伎楽の桜井はまさしく桜井寺そのものだったのでは・・・、と李氏は想定され、日本初の伎楽教習所は桜井寺またはその周辺に求めるべきとの新説を2年前に発表された。そして、味摩之が伎楽を伝えた場所を顕彰する記念碑を向原寺の境内に立てることを思いつかれたそうだ。

除幕のテープを引く五人
除幕のテープを引く五人
 幕式では、向原寺住職の蘇我原敬浄(そがはらけいじょう)氏の歓迎の挨拶の後、李応寿教授から祈念碑を建立するまでの経過報告があった。 その後、除幕のセレモニーが行われた。一緒にテープを引いたのは、「韓国文学を憶う会」の創立者と会長、大韓民国総領事館の副総領事、明日香村の関村長、および向原寺住職の蘇我原氏の5名である。幕が取り除かれた石碑の大きさは、高さ約1.35m、幅約1mで、そこには次のような碑文が刻まれていた。

伎楽伝承の地  『日本書紀』六一二年に、百済の味摩之が歌舞劇の伎楽を日本に伝えるや、聖徳太子が桜井に学校を設け、それを伝授させた旨がみえる。その「桜井」が、韓国の李応寿の調査研究(日本演劇会紀要四七)により、新たにこの付近に比定されたので、碑を建て、韓国と日本の演劇交流の始原を記憶するものとする。 二○一○年七月二三日 韓国文学を憶う会

36年ぶりに帰還した向原寺の寺宝・観音菩薩立像

 和49年(1974)9月上旬、寺宝として本堂の内陣に祀られていた金銅製観音菩薩立像が、厨子と共に忽然と姿を消した。昭和49年と言えば、2年前に発見された高松塚古墳の装飾壁画が国宝に指定された年だ。見事な色彩で描かれた飛鳥美人たちの姿は、当時日本中に衝撃と感動を与え、考古学ブームの火付け役となり、明日香を訪れる観光客が急増していた。寺の住職だった蘓我原敬浄住職は「この寺に立ち寄る人は本当に歴史が好きな人」との思いから、参拝者に仏像を公開していた。

無事に戻ってきた観音菩薩像
 難にあった観音菩薩像は、実は奇妙な仏像だった。頭部は飛鳥時代後期(7世紀末〜8世紀初め)、首から下および光背は江戸時代の作という一風変わった作品である。それは、この仏像が発見された経緯による。 江戸時代の明和9年(1772)、観音像の頭部(4.1cm)だけが向原寺の傍の難波池から発見された。当時は百済伝来の仏像の残欠として喧伝され話題になったようだ。だが、廃仏派によって西の国へ帰れと難波の堀江に捨てられたのは、釈迦像であって観音像ではない。しかし、日本最初の尼寺である豊浦寺で祀られていた仏像である可能性があった。

 こで、寺では、京都の仏師に依頼して体部、光背および台座を鋳造して接合して貰い、厨子に入れて寺の本堂に安置してきた。厨子には、頭部の発見と補作のいきさつが記されてあったそうだ。その頭部が飛鳥時代後期、首から下が江戸時代の作という変わった観音立像が、38年前に厨子とともに寺から消えた。

 まれた金銅製観音菩薩立像は、平成22年(2010)の9月、実に36年ぶりに発見され、無事に向原寺に戻った。この盗難仏の発見には奇跡的な幸運が重なった。盗難仏を発見したのは、大阪大学大学院で古代仏教美術を研究する青年だった。彼は平成20年(2008)に寺を訪れ、盗難以前に撮影された仏像の写真パネルを見ていた。そして、たまたま参加した古美術のインターネットオークションでカタログに掲載されていた仏像が、向原寺で見た仏像写真にそっくりなのに気づいた。彼からの連絡を受けて、向原寺はオークション会社に盗品なので競売を差し止めるよう連絡し、その会社の仲介で出品者から仏像を買い取った。平成22年(2010)9月23日に還仏法要が営まれ、寺の関係者は、盗難による破損被害もなく無事に戻ってきたことを喜んだという。




indexに戻る