斉明天皇陵(さいめいてんのうりょう)二度も登極し波乱の人生を生きた皇極・斉明女帝の越智崗上陵(おちのおかのうえのみささぎ)

宮内庁が斉明天皇と娘の間人皇女の合葬陵として管理している越智崗上陵

667年、母と妹と娘と息子を一度に埋葬した中大兄皇子(なかのおおえのみこ)

 日本書紀』は天智称制6年(667)の陰暦2月27日、「斉明天皇と妹の間人皇女(はしひとのみこ)小市崗上陵(おちのおかのうえのみささぎ)に合葬し、同じ日、娘の大田皇女(おおたのひめみこ)を陵の前の墓に葬った」と記す。

斉明天皇陵付近のマップ
斉明天皇陵付近のマップ
 を言うと、同じ日もう一人遺骸が改葬された皇子がいる。中大兄皇子と遠智娘(おちのいらつめ)の間に生まれた建王(たけるのみこ)である。大田皇女にとっては実の弟であり、斉明天皇から見れば皇孫にあたる皇子である。その建王は、生まれつき口がきけないという障害を持っていたため、祖母の建王への愛情はひとしお深かった。しかし、斉明4年(658)5月、皇子は8歳というあどけなさを残したまま黄泉の国へ旅立ってしまう。皇子の殯宮(もがりのみや)今来谷(いまきだに)のほとりで営まれたが、そのとき女帝は慟哭し別れを惜しみ、群臣たちに対して、「吾が死んだら、死後は二人を必ず合葬するように」と遺言している。

 の斉明天皇と間人皇女、大田皇女、そして建王の遺骸を埋葬した墓が、高取町車木(くるまぎ)にある。そもそも車木という地名は、斉明天皇葬送の霊柩車が来て止まったところ、すなわち車来であったとする地名起源説話すらある。『日本書紀』は斉明天皇陵を小市崗上陵(おちのおかのうえのみささぎ)と呼んでいる。現在は小市岡を越智崗と表記する。

 鳥巡りの延長として斉明天皇陵を訪れるには、アクセスにいささか難がある。マイカーでもあれば別だが、徒歩だと近鉄「橿原神宮前」から出ている近鉄御所駅行きのバスを利用して、「郡界橋(ぐんかいばし)」停留所で下車し、そこから東へ0.5キロほど歩かなければならない。JR和歌山線を利用する場合は「わきがみ」駅で下車し、徒歩で25分ほどかかる。

郡界橋東詰交差点から車木の集落に向かう旧道
郡界橋東詰交差点から車木の集落に向かう旧道
 我川の右岸を併走して南下してきた県道35号線の郡界橋東詰交差点から、県道から分岐して車木の集落の中に入っていく狭い旧道がある。集落の中程に駐在所があるが、その手前で「斉明天皇 越智崗上陵」方面の標識が立っている。標識の矢印に従って山際の方へ進むと、民家の横から長い石畳の階段が山の中腹に向かって延びている。何段あるのだろうと数えてみたら、最初の大田皇女の越智崗上陵まで140段あった。それから、斉明天皇と間人皇女の合葬陵までは、さらに80段あった。

斉明天皇陵に続く石畳の階段
 田皇女は中大兄皇子の皇女だった。彼女は中大兄皇子の弟の大海人皇子に嫁いだが、何時亡くなったのかは記録にない。おそらく667年か、すこし前と推定されている。 『日本書紀』の記述を信用するなら、天智称制6年(667)2月27日、3つの棺を乗せた霊車が飛鳥の行宮を出て越智丘陵に向かった。

 列の先頭を行くのは、邪を払う方相(ほうそう)氏を載せた車である。方相氏は、4つの黄金の目の仮面をつけ、熊の皮をかぶり、黒い衣に朱の裳をまとい、戈と楯を持って邪気を払う仕種を続けていた。それに続く霊車には、斉明天皇、孝徳天皇の皇后だった間人皇女、それに大田皇女の亡骸が納めた黒い漆塗りの棺が乗せられていた(建王の改葬もこのとき行われたのであれば、その棺も一緒に運ばれたはずである)。

石段の途中で日向ぼっこをしていた野良猫
 大兄皇子にとっては、実の母であり、実の妹であり、実の娘にあたる三人の女性の棺である。それに続いて、楽器(鼓、大角、小角、金鉦、鐃鼓)の数百人の奏楽者や幡を持つ行列、楯などの威儀を備える行列が続いた。その後に、中大兄を先頭に何百人もの葬儀の参列者が続いた。前代未聞の壮大な葬列だった。同時に母・妹・娘を埋葬した人物など今までいたであろうか?と、中大兄皇子は遙か前方を行く三つの棺に目をむけた。涙でかすむ目には、棺を乗せた車はおぼろげに滲んで見えた。

 明天皇は、前年滅亡した百済の復興支援のため支援軍の先頭にたって、斉明天皇7年(661)1月6日船で難波津を発って西に向かった。復興支援軍の第一派は1万余人で構成され指揮を任された安曇比羅夫(あずみのひらふ)は船舶170余隻を率いてその年の5月、那の津を出発していった。かれらは人質として我が国にきていた豊璋王(ほうしょうおう)を護送する先遣隊だった。 その直後の7月、斉明天皇は朝倉宮で崩御した。すでに68歳の高齢だった。斉明天皇崩御にあたっても中大兄皇子は即位せずに称制し全軍を指揮した。10月、中大兄皇子は天皇の亡骸とともに飛鳥に戻り、弟の大海人皇子(おおあままのみこ)()に母の(もがり)を任せると、直ちに九州に引き返した。

大田皇女の越智崗上陵
大田皇女の越智崗上陵

 徳天皇の皇后で中大兄皇子の同母妹だった間人皇女(はしひとのひめみこ)は、天智称制4年(665)2月25日に薨去している。母・斉明とともに殯が続けられたであろう。中大兄皇子は3月1日、330人を出家させて妹の死を供養させている。

側面から見た大田皇女の墓の墳丘
 海人皇子に嫁いだ大田皇女が何時亡くなったのかは記録にない。おそらく667年かすこし前と推定されている。 大田皇女は祖母に従って西下している。661年1月8日、天皇の御座舟が大伯(おおく)(現在の岡山県邑久)から四国の熱田津に向かう船中で女の子を出産した。そこが小豆島北方の大伯海だったので、大伯皇女(おおくのひめみこ)と名付けられた。2年後の663年、彼女は九州の那大津(なのおおつ)でも男子を出産している。後に非業の死を遂げる大津皇子である。したがって、大田皇女が667年のはじめに亡くなったと仮定した場合、7歳の皇女と5歳の皇子を残して黄泉の国に旅たったことになる。幼い二人も当然、父・大海人皇子に手を引かれて母の葬儀に参列していたであろう。

コンクリート柱で囲われた斉明天皇の越智崗上陵
コンクリート柱で囲われた斉明天皇の越智崗上陵
 時に棺は石棺である。どれくらいの大きさだったか不明だが、大田皇女の棺は140段の石段を担いで納棺しなければならなかった。斉明天皇と間人皇女の棺はさらに80段も上に引き上げなければならなかった。筆者などは老体をむち打って220段の階段を登るのに、途中で何回も呼吸を整えなければならなかった。ようやく大田皇女の墓にたどり着いて一息いれた。横から眺めると、墓は意外と小さい墳丘だった。その横を通って山腹をさらに登っていくと、やがてコンクリート柱で囲われた斉明天皇の越智崗上陵が見えてきた。

斉明天皇の越智崗上陵の正面
斉明天皇の越智崗上陵の正面

陵の標識
陵の標識
 内庁が陵の前に掲げた標識を見ておや?と思った。斉明天皇と孝徳天皇の皇后間人皇女の越智崗上陵、と天智天皇の皇子の建王の墓とある。建王の墓は斉明・間人合葬陵と別に造られているのだろうか。老女帝の遺言から推すと、女帝と皇孫の棺は必ず同じ石室に納められているはずだが、宮内庁では別の墓と認識しているようだ。しかし、見たところ、コンクリートの柱で囲われた墓域には別の墳丘があるようにも思えない。


 20段の石段を登ってきたのであれば、同じ数だけ降りなければならない。階段は上りよりも下りの方が膝に衝撃が加わるようだ。やっとの思いで麓にたどり着くと、駐車場の縁石に腰を下ろして、しばらく休憩を取らなければならなかった。一息いれながら、一昨年の9月に弓丘丘陵の尾根近くに築かれてたる牽牛子塚(けんごしづか)古墳が発掘調査の結果、古代天皇家に特有な八角形墳であり、斉明天皇の墓の可能性が高いことを大々的に報じたのを思い出した。

想定される八角形の墳丘の裾
想定される八角形の墳丘の裾
 牛子塚古墳の現地見学会は、9月11日と12日の二日にわたって行われ、2日間で見学者の数は約7500人に達したそうだ。猛暑の中、ピーク時には見学待ちの行列が約200mも続き、この古墳に対する歴史愛好家の関心の高さを伺わせた。筆者は埼玉の自宅にいて見学会に参加できなかったが、友人のサンチョ君が写真で当日の様子を知らせてくれた。

 スコミ報道では、牽牛子塚古墳が真の斉明天皇陵であるという論調で、専門家のコメントなども載せていたが、当時から気になっていたことがある。

 日本書紀』は、天智天皇6年2月27日に「斉明天皇と間人皇女とを小市崗上陵(おちのおかのうえのみささぎ)に合葬した」と明記している。さらに、文武天皇3年(699)にもこの山陵は修復されていて、『日本書紀』が編纂された720年の時点で所在不明だったことはない。したがって、書紀の記述を信用すれば、その所在は高取町の越智丘陵でなければならない。だが、牽牛子塚古墳は、そこから北東へ2.5kmも離れた真弓丘陵に築かれている。

 らに『日本書紀』は、その同じ日に皇孫の大田皇女を陵の前の墓に葬ったと伝えている。そうであれば、牽牛子塚古墳の前面に別の古墳が存在していなければならない。車木ケンノウ古墳を斉明陵として管理している宮内庁は、その南約80メートルの墳土を大田皇女墓と指定している。だが、マスコミ各紙の記事を読んだかぎりでは、牽牛子塚古墳の前にそうした古墳の存在を伺わせる記述は一行もなかった。

発掘された越塚御門古墳
発掘された越塚御門古墳
 ころが、明日香村教委がその年の12月9日に行なった記者発表で、そうした疑念も吹き飛んだ。牽牛子塚古墳の隣接地で、牽牛子塚古墳とほぼ同時代に造られた未知の古墳が見つかったというのだ。場所は牽牛子塚の南東側20m地点で、見つかったのは埋葬施設の横口式石槨である。文献上も地表面の痕跡からも全く知られていない古墳で、村教委は地名から「越塚御門(こしつかごもん)古墳」と名付けた。 越塚御門古墳の出現で、牽牛子塚古墳が真の斉明天皇陵であることが確定したようなものだ。

 が、『日本書紀』の編者が越智丘陵を真弓丘陵と取り違えたのかは、相変わらず疑問として残っている。文武天皇3年(699)の山陵修復が事実ならば、編者にとって現代史の一部である。天皇陵の所在を誤記するとは思えないのだが、それを解明するには、宮内庁が斉明天皇陵として管理している越智崗上陵の発掘調査する必要がある。だが、容易に実現するとは思えない。




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