都塚古墳(みやこづかこふん)明日香村で石室内の石棺が見れる唯一の古墳

晩秋の都塚古墳
晩秋の都塚古墳

石舞台古墳の傍にありながら、ほとんど訪れる人のない古墳

阪田集落へ続く登り坂の途中にある都塚古墳
阪田集落へ続く登り坂の途中にある都塚古墳
 舞台古墳の左を走る県道155号線を多武峰方面へ少し進むと、道が二股に分かれる。南西方向に下る県道15号線には、冬野川をまたいで「都橋」が架かっている。橋を渡ってすぐの所に、左の集落へ続く登り勾配の村道がある。都塚古墳は、その村道の途中の見晴らしのよい場所に、周りの畑に囲まれて静まりかえっている。

 塚古墳は、明日香村坂田ミヤコの河岸段丘の上に位置しており、石舞台古墳からは400mほど南東にあり、徒歩10分ほどでアクセスできる。しかし、この古墳まで足をのばすハイカーはほとんどいない。元日の朝、この古墳で金の鶏が鳴くという伝説から「金鶏塚」という別名を持つ。明日香村には多くの古墳が点在しているが、横穴式石室に家型石棺を納められているのを見学できるのは、この古墳だけである。

南に開口した石室
南に開口した石室
 墳の例に漏れず、この古墳もかって盗掘を受けたことがあり、封土も大半が失われている。昭和42年(1967)に発掘調査が行われ、墳墓の規模と形は、直径30mほどの円墳、または一辺28m程度の方墳と推定された。さらに石室の全体が明確になった。その内容は以下の通りである。

●埋葬施設;南に開口した両袖式横穴式石室で全長は12.2m、羨道はが長さ6.9m、幅1.9m、高さ1.9m、玄室は長さ5.3m、中央部幅2.55〜2.93m、高さ3.55mを測る。 花崗岩の自然石を積み上げて石室が造られているが、2段目からはやや内側に傾斜している。
●石棺:花崗岩質片麻岩による刳抜式家形石棺。長さ2.36m、幅1.58m、高さ0.64m
石棺の蓋に6個の縄掛突起を持ち、その形状からこの古墳の築造時期は6世紀後半から6世紀末と考えられている。

半分蓋が開いた石棺
半分蓋が開いた石棺
 土したものとして鉄鏃、刀子、小札、須恵器などが知られている。石棺の前、入口寄りに5個の棺台と見られる石があり、周辺から鉄釘片や顔料が検出されたことから、もう一つ木棺が安置されていたと考えられる。

 念ながら被葬者は分からない。しかし、冬野川の流域は蘇我一族の奥津城ではなかったかと考えられるほど古墳が多く、細川谷古墳群を形成している。あるいは、渡来系一族の奥津城であった可能性もある。たとえば坂田の集落はかって鞍作一族が居を構えたところである。その氏寺である坂田尼寺跡は、都塚古墳からそれほど隔たっていない眼下にある。一家を連れてこの地に移り住んだ司馬達等を、被葬者と想定するのもあながち不可能ではない。

持ち上がり式の天井 錆びて古くなった説明板
持ち上がり式の天井 変色して古くなった説明板

石を階段状に積み上げたピラミッド形の方墳だったことが判明

NHKのニュース番組での報道
 成26年8月、都塚古墳に新しい発見があった。前年度から明日香村教育委員会と関西大学が合同で墳丘の発掘調査を実施してきたが、石を階段状に積み上げたピラミッドのような極めて珍しい形をしていた墳丘だった可能性が高いことが分かった。

 成25年度からの調査では墳丘上や周囲に約100平米を調査区を設置して発掘し、東西と北側の3カ所で墳丘の裾を確認し。これまで1辺約28mと想定されていた裾が41〜42mにることが判明したという。墳丘は南から延びる尾根の先端の基礎層を削り、盛り土をして構築されていた。墳丘の最下段は斜面に川原石が敷かれ、テラス面は幅が約6mの広さがあった。

大勢の古代史ファンの列
(朝日新聞より)
 た、墳丘の東側では、段状の石積みが4段見つかった。各段の高さは30〜60cmで、拳大から人頭大の川原石が積み上げられていた。最下段のテラスまでさらに2〜3段続くと予想され、もともと7〜8段あったと想定される。したがって、高さは4.5m以上に復元できるという。

 ラミッド形の古墳は今まで類例のない墳丘で、マスコミに公表されると、大きな反響を呼んだ。8月16日に行われた現地説明会には約4100人の古代史ファンが見学に訪れた。蘇我氏と高句麗との関係に着目して、京都橘大学の猪熊兼勝名誉教授は、都塚古墳は「強大な権力を握った豪族の蘇我稲目(506-570)が埋葬されたのではないか」と指摘しておられる。




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